突発的な犯行の被害者に関しては、小金井でシンガーソングライターが刺された事件でもそうだったし、三鷹のストーカー殺人のケースでも同じことだったが、メディアは、小中学校の卒業文集を発掘したり、古い同級生の証言を寄せ集めることを通じて、定番の「物語」を紡ぎにかかる。これはもう、テレビの病気みたいなものだ。毎度毎度、犯罪被害に遭遇した犠牲者は、死人に口なしとばかりに、徹底的にマナイタに乗せられ、生前の生活を再構成され、一般の娯楽に供される運命に抗うことができない。

 が、今回は、人権的にも素材的にもそれが困難だった。

 それゆえ、ワイドショーは、容疑者の側の私生活や主張を微に入り細を穿って紹介することで、VTR素材の尺を稼がざるを得なくなった。それが、今回の植松劇場を生んでいるのだと思う。

 もっとも、容疑者は精神障害を持っているかも知れず、とすれば、ストレートな報道は難しいはずなのだが、なあに、これだけの殺人を犯したのだから、人権的配慮は無用だ、と、彼らは判断したのだろう。

 本当に人権的配慮が求められているのは、容疑者本人に対してというよりは、容疑者と同じ精神障害をかかえている人々に対してなのだが、彼らは、そういう細かいことは考えない。

 なんとなれば、番組を支えている気分は、「悪い犯人はどんなに残酷に罰してもよい」という、素朴な正義感だからだ。これは視聴者の側にしてみても同じことで、多くの番組視聴者は「精神障害者だからといって、病気の陰に隠れて罪を免れて良いはずがない」というふうに思っていたりする。

 そして、私が、もっとも大きなもやもやを感じているのは、このテレビのワイドショーを成立させている「素朴な正義感」に対してだ。

 今回、テレビが何度も何度も繰り返し読み上げていた容疑者の手紙の中に見られる「障害者は動物のように生きている」「重複障害者が安楽死できる世の中を」「障害者は不幸を作ることしかできない」といった文言は、人間の生命に優劣をつけることで社会を改良できると思っている者の思い上がりでもあれば、およそ浅薄な優生学的思想そのものでもある。

 しかし、これが容疑者個人の内心に独占されている特殊で奇矯な考え方なのかというと、残念だが、現実にはそうでもない。植松容疑者の言いぐさは、たとえばネット掲示板の中では、毎日のように繰り返されているごくごく一般的な露悪的述懐でもあれば、自分では「冷徹」なつもりでいる“論客”が、「人権」や「弱者」という言葉を見かける度に反射的に浴びせかけてくる親切ごかした処方箋でもあるわけで、考え方としては、わりと一般的なテンプレートだったりする。

 しかも、この優生思想は、どうかすると、ある一群の人々が表明したがる「素朴な正義感」とリンクしている。

 なんというのか、少なくとも容疑者にとって、これが「正義の犯罪」であり、少数派ではあるにせよ、一部の視聴者の間にその植松容疑者の「正義」が、共有されている感じがあって、私には、それがどうにもこうにもうす気味が悪いのである。

 たとえば、曽野綾子さんは、「週刊ポスト」(2月1日号)に掲載されたインタビューの中で、「高齢者は適当な時期に死ぬ義務がある」という主旨の発言をして、物議を醸している(こちら)。

 当然、この発言には、たくさんの反発の声が寄せられ、ネット上でも大きな話題になった。

 が、注意すべきなのは、非難や反発の声が大きかっただけではなく、曽野綾子さんの発言を擁護したり、彼女の考え方に共感を寄せる声もそれなりに集まっていたことだ。