しかも、彼らは、容疑者が書いたとされる手紙のコピーをこれでもかこれでもかと繰り返し読み上げ、大写しに画面表示し、特定部分にハイライトを当て、解読し、解説し、余白を補い、結果として、19人の人間を殺したとされる男の主張を全力をあげて拡散している。

 私が、テレビを見ることをやめたのは、犯人をダークヒーロー扱いにしているみたいな絵ヅラにうんざりしたからだ。

 スタジオでしゃべっているコメンテーターや、番組の構成を担当しているディレクターが、容疑者をヒーロー扱いする意図を持っていると言い張るつもりはない。

 そんな意図を持っている人間は、一人もいないはずだ。
 が、結果としては、犯人を英雄視する内容を含んだ番組が放送されている。

 無論、テレビを見ているほとんどの視聴者は、容疑者をヒーローだとは思わないだろう。カッコいいとも思わないし、まして憧れるなどという感情は誰も抱かないはずだ。

 が、中には容疑者を英雄と思う者もいる。
 実際に、通り魔的な犯行を犯した人間が、過去のビッグネームの犯罪者を英雄視していたケースは、これまでに報道された事件の中にもいくつか見られている。

 その種の明示的な影響とは別に、容疑者が浴びているスポットライトを羨んでいる犯罪者予備軍も、少なくはないはずだ。
 今回の容疑者自身、おそらく、逮捕の時の様子からして、メディアの注目を喜ぶタイプの人間なのだと思う。

 とすると、いま現在ヘビロテされている植松聖劇場の報道スペシャルは、彼自身にとって、願ったり叶ったりの番組であるはずで、その意味で、メディアは、植松容疑者にある種の達成感、ないしは「エサ」を与えていることになる。

 彼自身に向けただけの「エサ」ではない。
 この種の報道は、植松容疑者と同質の願望を抱いている不安定な予備軍に、大変によくない暗示を与えている。

 WHOは、自殺予防の手引として、いくつかのガイドラインを作成している。
 そのうちのひとつに、自殺報道に関しての手引きというものがある。

 この手引きの中で、WHOは、センセーショナルな自殺報道や、自殺を問題解決のひとつであるかのように伝えるニュースの作り方が、潜在的な自殺志願者を自殺の実行に導き得ることを示唆しつつ、報道関係者に、過大な自殺報道の自粛を呼びかけている。

 詳しくは内閣府のホームページに、その内容が紹介されている(こちら)。

 自殺報道と犯罪報道を同一視することはできない。
 それでも、犯罪報道においても、あるタイプの大量殺人者を過大に扱う態度が、模倣犯を誘発する可能性は、考慮されなければならないとは思う。
 その点から考えると、いま繰り返されている植松劇場は、派手過ぎる。
 まるでボニーとクライドみたいだ。

 思うに、今回の事件に関して、テレビ各局は、被害者側のプライバシーを暴き立てるいつもの手法をそのまま押し通すことができなかったのだろう。

 理由は、さきほども申し上げた通り、被害者が知的障害者であり、氏名や年齢をはじめとする個人情報をそのまま伝えることがはばかられたからでもあれば、遺族へのストレートな取材が困難だからでもある。

 ついでに言えば、以下は私の憶測だと思ってもらって構わないのだが、今回、事件の犠牲となった人々についてのプライベート暴露報道が少ないのは、報道のクルーにとって、被害者が定番の「物語」に載せにくい人たちだったからだ。