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 杉田議員の場合、生産管理用語を人間にあてはめていることだけでも人権感覚を疑われてしかるべきところなのだが、彼女はさらに「生産性のないLGBTには、税金を使うべきではない」という意味のことを書いてしまっている。つまり、彼女は、LGBTの人々に対して「生産性」という尺度で異端視するだけでは足りず、税金の費消先から排除するべきである旨を宣告してしまっている。
 論外。完全にアウトですね。
 こんな人物が現職の国会議員であって良いものなのだろうか……というタイプのお話は、きりがないのでこのへんでおしまいにしておく。

 8月号に載っている彼女の原稿を逐語的にここに引用して、いちいち反論すれば、たぶん3万文字程度の原稿はすぐにでも書ける。

 でも、今回はそれはしない。
 理由は、空しいからだ。

 杉田議員の主張は、たしかに、一から十まで間違っている。人権感覚は皆無だし、差別意識を隠そうともしていないし、なにより自分と相容れない人間を理解しようとする姿勢があまりにも乏しい。

 しかし、私が感じている問題はそこではない。
 私は、もっと別のところに絶望を感じている。

 私が今回、この話題を取り上げようとしたのは、杉田議員の主張を論破するためではない。彼女を叱りつけるためでもない。
 むしろ逆かもしれない。

 私は、杉田水脈氏の考え方が、「異様」で「異例」で「極端」で「他に例を見ない稀有な思想」なのかというと、実はそうでもないのだと思っている。
 同じような考えを持っている日本人は、残念ながら少なくない。

 であるから、私が当稿の中で読者にお伝えしようとしているのは、むしろ、杉田水脈議員が「新潮45」に寄稿した記事中で展開しているどうにも酷薄で低次元で短絡的な優生思想丸出しの前近代的な主張にシンパシーを感じている日本人は、決して少数派ではないのですよということだったりするのだ。

 彼女が常日頃繰り返しているスパルタンな主張のうちの少なくとも一部分について
 「じっさいその通りだよね」
 という感想を抱いている日本人ののべ人数をカウントしたら、おそらく、多数派になるはずだ。

 だからこそ、自民党の二階俊博幹事長は24日の記者会見で
 「人それぞれ政治的な立場、いろんな人生観、考えがある」
 と述べて、彼女の発言を問題視しない旨を明らかにしたのである(こちら)。

 二階幹事長のこの措置について、
 「国民を舐めている」
 「適当にお茶をにごしていれば、じきに沈静化すると思っている」
 「人権侵害の内容があまりにもひどすぎるので、かえって問題にできずにいる」
 などと言っている人たちがいるが、私は違うと思っている。