そういう、人付き合いが苦手だったり、組織の一員とした過ごすことに圧迫を感じがちだったりする若者が、「人柄をよくしましょう」というアドバイスを投げかけられたら、彼はおそらく、失望感を抱くはずだ。

 実際のところ、ライティングの仕事を得るのは、文章の上手い若者よりは、コミュ力万全の座持ちの良い若者であるのかもしれない。

 でも、心の底からライターになりたいと思っているのは、実のところ、「人柄なんかで判断されたら、オレなんかとてもじゃないけど通用しない」と思い込んでいる若者の方で、こういう人たちが業界に来てくれないと、若い才能の払底は解消されない、と、少なくとも私はそう考えている。

 で、私は、当日、

《出版社の社員編集者が、ライター志望の若者に人格の向上を促すアドバイスを送ったら、相手の耳には「オレに気に入られるように努力しろ」というニュアンスで響くことになると思う。というのも、若いライターにとって、編集者は、金主であり発注元であり自分の生殺与奪の権を握る全能の人間だからだ。》(こちら

 というツイートを書き込んだ。また、翌日には、さらにくどくどと

《実際は「ライターの書いてくる原稿なんて大差ないんだからオレは感じの良いヤツに仕事を回すよ」てなことなのかもしれない。だけど、建前としては「良い原稿のためなら火の中にだって飛び込むぞ」「良い原稿を書くのであれば悪魔とだって取引する」と言っておくのが編集者魂ってものじゃないのか?》(こちら

 というコメントを書き込んでいる。

 クリエーターの世界で高齢化が進んでいるのは、お笑い芸人であれ、ライターであれ、フリーのコピーライターであれ、とにかく、若い人たちが自分の腕で勝負する職業に魅力を感じなくなっていることの現れなのだと思う。

 というよりも、彼らはすでに「自分の腕で勝負する」というファンタジーを信じていないのかもしれない。

 「なんですかそれ? 腕一本で勝負とかどこのファンタジーゲームですかw」

 と、だからこそ、「人柄をよくしましょう」のツイートが1万件以上の「いいね」を獲得しているわけで、結局のところ、この30年、うちの国の社会は、「腕」や「才能」よりも、ただただひたすらに「人柄」「コミュ力」「協調性」を重視する方向でわれわれを運んできたのである。

 「才能」などという考え方自体、おとぎ話に過ぎないのかもしれない。

 あるいは、最前線で文章の編集にたずさわっているベテランの編集者からすれば、「才能」の二文字ほどライター志望の若者を害する言葉はないということなのかもしれない。

 私も、半分ほどまでは、その考えに賛成する。実際、才能だとかを信じて道を誤る若者は常に一定数いるわけだし、それを思えば、「大切なのは人柄だよ」と言っておいた方が、結果としては思いやり深いのかもしれない。どうせ完全に思い上がった若者は、「人柄」と言われても、「ケッ」としか思わない。とすれば、半端に思い上がった若者に覚醒を促すぐらいの言葉がちょうど良いと言えば言えるのかもしれないからだ。

 好況が続いていた時代の若者であった私は、心のどこかで、
 「20代はまるごとぶらぶらしていてもOK」
 だと思っていた。のみならず
 「そのうち自分にふさわしい仕事が向こうからやってくるだろう」
 てな調子で、世間を舐めた世渡りを続行していた。

 同じことを、いまの若い人たちに求めるのはおそらく無茶な話なのだろう。
 なにしろ、ライターにさえ「人柄」が求められる時代だ。
 長生きをしてしまうと、私もそのうち「人間合格」ぐらいなタイトルで自己啓発本を書かねばならなくなるのだろうか。

(文・イラスト:小田嶋 隆)

えーと、今回は、婉曲な私への「担当失格」なのでしょうか。
あと、その啓発本のタイトルはいかがなものかと思います。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。