
聖路加国際病院の名誉院長、日野原重明さんが亡くなった。
105歳だったのだそうだ。
意外だったのは、私の周囲にいる同世代の人間の多くが、このたびの日野原さんの死にショックを受けていることだ。
意外、という言い方は、不謹慎かもしれない。
が、10年以上前に、父親を70代で見送っている私の実感からすると、105歳のご老人の大往生を惜しむ人がこれほど多いことには、やはり驚かされてしまうのだ。
「永遠に死なない人だと思っていた」
という感じのコメントをツイッターに書き込んでいる人も多かった。
なるほど。100歳を超えたご老人は、ある意味、象徴的な存在になるものなのかもしれない。
でなくても、この日野原重明という人の言葉や生き方に勇気づけられていた日本人は少なくなかったはずだ。
平凡な感慨だが、長く生きた人の死は、その人が生きた時代の死でもある。とすれば、日野原重明氏の死によって、何百万人の人々の心の中で保持されていた何かが一斉に死んだわけで、これは、単なる一個人の死では片付けられないできごとだったのだろう。ご冥福をお祈りしたい。
今回は、高齢化について近頃考えたことなどを記録しておこうと思っている。
政局があわただしいこの時期に、あえてこのネタを扱う理由は、時事問題に鼻を突っ込むことに少々嫌気がさしているということもあるのだが、昨年の秋に還暦を迎えて以来、自分の年齢について考える機会が増えているからでもある。
頭の中で考えていることは、いずれ書かれなければならない。
でないと、書かれなかった思念は、滞った血流や、野積みにされた生ゴミのように、いずれ悪い病気に結晶する……などと、大真面目にそんなふうに思い込んでいるわけでもないのだが、読む側の人間にどう映るのかはともかく、書く側の人間の仕事は、結局のところ、自分のアタマの中で起こる出来事に支配されているものなのだ。
60歳を過ぎてからこっち、ツイッターなどを通じて「老害」という言葉を浴びせられる機会が増えた。
個人的に、この種の指摘には反論しないことにしている。
理由は、勝ち目がないからだ。
自分より年齢の若い人間に「老害」という言い方で総括されることは、言ってみれば、当然の帰結だ。
年上の人間に、「老害」と呼ばれたのであれば、私とて、一応の反撃は試みるかもしれない。が、相手が年下である以上、年齢の高低を争ったところで、こちらにははじめから勝算がない。
背丈であるとか年齢であるとかいった、明白なエビデンスを伴った事柄については争わないのが、言論人のたしなみというもので、ここのところで争うと、かえって、年齢の大小を競うことに意味がある旨を自ら認めてしまうことになって、まことに具合いが良くない。
なので、年齢の話を持ってこられたケースでは、穏当に無視するか、でなければ
「おっしゃるとおりですね」
てな調子で紳士的に対応することにしている。
実際、おっしゃる通りだからだ。
「老害」というこの言葉を発する人々の内心には、私個人への非難とは別に、「老人たちが社会を壟断して、若い世代の参入を阻んでいる現状」に対する抗議の気持ちがわだかまっている場合がある。
で、これもまた、おっしゃる通りだったりする。
あらためて見回してみると、たしかに、われわれが住んでいるこの国は、様々な分野で、いまだに老人支配が続いている。
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