そもそも、記者会見の場で何かを弁明せねばならないこと自体、状況としては「詰んで」いる。こういう場面で、有効な弁明は原理的に存在し得ない。誰もが納得する説明なんてものも実のところ、ひとっかけらもありゃしないのだ。

 とすれば、会見における唯一の有効なマナーは、「哀れな」「なさけない」「かわいそうな」人間としての実相をあますところなく露呈することなわけで、つまるところ、会見に追い込まれた人間は、鼻水を垂らして泣き出すか、禿げたアタマをみっともなく見せつけて土下座をしてみせるかして醜態を晒す以外に生き残る道は無いのである。

 なんとなれば、弁明会見をニヤニヤしながら眺めている視聴者が求めているのは、状況説明でもなければ、事実関係の詳細でもなくて、罪を犯した人間が晒す「醜態」だからだ。ということはつまり、会見というのは名前だけの話で、あれは実際には「公開処刑」なのである。

 ここしばらく、「文春砲」というスターティングガンとともに開始される制裁や私刑は、どれもこれも、発端としては個人の醜聞に属する話ではあっても、最終的には、弁明に失敗した人間をどこまでも追い詰める集団的なモグラ叩きみたいなゲームに落着する決まりになっている。

 一週刊誌の取材力の卓越性に対して「文春砲」という名前がつけられたところまではわかる。
 が、その称号を与えられた当の編集部が、「文春砲ライブ」などという調子ぶっこいたタイトルのネット生中継を主催して自らのパパラッチ報道の成果を誇る態度は、あまりにも見苦しいと思う。

 文春砲。
 他人の秘密を暴くことがどうしてそんなに誇らしいのだろうか。

 ベッキー嬢があんな目に遭ったのは、いまにして思えば、おそらく、不倫そのものが裁かれたというよりは、当初の説明の拙劣さ(というよりは、バカ正直なウソを押し通そうとした真正直さ)が反感を買ったことからだ。

 舛添さんの墓穴も似ているといえば似ている。
 つまり、自己過信のゆえなのか、世間を舐めているからなのか、いけしゃあしゃあとウソを押し通そうとしたところが反感を決定的にしてしまったわけだ。

 同じように婚外交渉事案を暴かれた円楽師匠は、余計なウソをつかなかったおかげで、ほとんど無傷で済んでいる。

 ということは、公開処刑じみた会見やら弁明の席では、問われている「事実」の罪深さによって裁かれるのではない。あの場所では、「世間を渡る」「人」としてのコミュニケーション能力の高低が問われている。とすれば、トボけ方に洒落っ気があって苦笑いに可愛げがある噺家の師匠みたいな人じゃないと生き残れないということだ。

 舛添さんは、大変にアタマの良い人だが、ああいうふうに極端にアタマの良い人の中に時々いる、共感能力の乏しい人でもある。このことは、世間を渡っていくうえでは大きなハンデだし、周囲で一緒に仕事をしなければならない人にとっては、災難ですらありそうだ。まあ、困った性格ではある。

 でも、ぜひ強調しておきたいのは、舛添さんが、共感能力に乏しく、空気を読むことの苦手な人間であるからこその長所として、極めて論理的にものを考えることのできる強みを持っているということだ。

 昨年の5月、下村文部科学大臣(当時)を通して580億円の支出を求められた舛添都知事は、同日の会見で

「全くいいかげん。支離滅裂だ」

 と、文部科学省の態度を厳しく批判し、さらに、当時メルマガに連載していたコラムの中で、

「新国立競技場建設の責任者に能力、責任意識、危機感がないことは驚くべきことであり、大日本帝国陸軍を彷彿とさせる。日本を戦争、そして敗北と破滅に導いたこの組織の特色は、壮大な無責任体制になる。」

 と、東京五輪に関わる人々の姿勢を一刀両断に決めつけている(こちら)。

 この原稿は、いま思い出しても見事な文章だった。