そんなわけで、テレビ画面のこちら側にいる人々は、「疑惑」や「事実」に対する、理詰めの結論としての「判断」ではなくて、「態度」や「人柄」への感情的な「嫌悪」や生理的な「不快感」の表明として、舛添さんに辞任を求めたわけで、こうなると、「会見」は、「事実関係」を「説明」する場ではなくて、「マスゾエ・ザ・シミッタレ・キング・オブ・キャピタル・オン・ステージ」みたいなショー仕立てのエンターテインメントそのものだった。

 舛添さんは、擁護の難しい人だ。
 それは、佐村河内氏や小保方さんや号泣議員でも同じことだ。私が大好きだった朝青龍にしても同様だ。

 というのも、いまここで名前を挙げた人たちに共通しているのは、彼らが「普通の日本人なら生まれつきに備え持っているはずの以心伝心の対人マナー」(最近の言葉で言えば「コミュニケーション能力(コミュ力)」)を身につけていない、特異な人たちだからだ。

 元来、うちの国の国民は、「空気を読まない」人間に対して冷酷だ。
 それが、ここへきて就活の影響なのか何なのか、コミュ力信仰が普及するに従って、さらに亢進している。

 われわれは、「以心伝心」の分からない人間や、「魚心あれば水心」が通用しない男や、「場の空気」を察知しない仲間や、「なあなあ」を理解しない同僚や、「そこのところはひとつよろしく」で話が通じない朴念仁を心の底から嫌っている。

 個人的には、戦後教育の中でやんわりと共有されていた「個性信仰」の影響で、ある程度緩和していたわが国に顕著な同調圧力が、「コミュ力万能主義」や「絆思想の強化」「江戸しぐさの強要」みたいな流れの中で、またぞろ強化されているのが21世紀の新たな傾向で、ネットやマスメディアによるリンチの横行は、「いやな野郎」や「感じの悪いヤツ」や「空気を読まないヤツ」をツブしにかかる、隣組メソッドの復活だと思っている。

 話を元に戻すと、舛添さんをはじめとする上にあげた「空気を読まない人々」は、摩訶不思議なオーラや、周到に演出された女子力や、圧倒的な言語運営能力や、奇天烈な感情暴発の魔法や、あるいは朝青龍の場合で言うなら単純な肉体的威圧で、周囲の人間を黙らせたり丸め込んだりたらしこんだり言い負かしたりして、自分の地位と権力を手に入れ、そのまた権力と地位がもたらす威圧によって周囲の人間を圧倒してきた人たちだ。

 であるからして、こういう人たちが何かでつまづいた場合は、当然、ひどいことになる。待ってましたとばかりに、それまでいやな思いをさせられていた人たちが、一斉に立ち上がって反転攻勢に出る。展開としては、非常にありそうな話でもあるし、一面の正義を代表しているプロットでもある。

 ただ、あらゆるタイプの不祥事に関して、とにかくなんであれ記者会見がセットされるようになったことが、一般の日本人を著しく残酷な市民に変貌させてしまっている。私は、その点を憂慮している。

 大勢の記者のマイクとカメラに囲まれて弁明をせねばならない立場に追い込まれた人間は、多かれ少なかれ、ボロを出さずにはおれない。してみると、結局のところ、記者会見(特に「弁明会見」と「謝罪会見」)というのは、小心だったり過緊張だったりコミュ障だったり自我肥大だったり虚言癖だったり、理由はともあれ、何らかの個人的事情で、世間並みの人間らしく適切に振る舞うことのできない人間をあぶり出していぶり出していびり倒して恥をかかせて排除するための、社会的な異分子選別装置として機能することになるわけで、しかもわれわれの時代は、その選別過程を娯楽として消費しはじめている。