私自身の話をすれば、5月更新の当欄で書いた通り、舛添さんに辞任を求めない数パーセントの側に立つ人間だが、その理由について、ここで蒸し返すことはしない。興味のある人は、リンク先を参照してみてほしい(こちら)。

 今回、私が、94パーセントという数字にこだわっているのは、この数字が、アンケートに答えた人たちの「気分」を反映したものだと考えているからだ。

 たとえば、アンケートの質問が

「舛添都知事に向けられている疑惑は辞任に値するものだと思いますか?」
 という文で問いかけられていたのであれば
「はい。辞任に値すると思います」
 という回答は、94%より、多少は少なかったはずだ。

 それが、94%もの辞任を求める声を集めたのは、アンケートに回答した人々が、疑惑の重大さや、知事が不正に流用したかもしれない金額の大きさを重視したからというよりは、知事が当初の段階で弁明として持ち出した「厳しい第三者の目」というプロットのいけ図々しさや、会見の中で質問に答える態度の端々で露呈した人間としての誠意の無さにあきれかえった結果なのだと思う。

 つまり、裁かれていたのは、「事実」ではなく「人格」であり、アンケートの中で表明されていたのは、「判断」ではなくて「感情」だったということだ。

 別の言葉で言えば、舛添さんが「いやな野郎」だったということでもある。

「このヒトは、たしかにアタマの良い人なんだろうけど、それだけに、これまでの人生の中で、他人をバカとしか思ってこなかったんだろうね」
「まあ、あらゆる人間を論破できると思い込んでるわけだ」
「オレが本気出して説得すれば、ライオンにチョレギサラダを食わせることだってできるぐらいには考えてるだろうな」
「ライオンにチョレギサラダよりは、ミミズにナポリタンとかの方が良くないか?」
「おまえ何言ってる?」
「いや、舛添ならミミズ入りナポリタンで売り上げを立てられるんじゃないかと」
「名うてのケチだしな」
「しみったれがオレらのボスだとか、気勢が上がらないったらありゃしないし」
「同じ無駄金でも、豪快さ故の無駄遣いだったり、粗雑さから来る脇の甘さとかなら勘弁してやらないでもないけど、どこまでもケチくさいちょろまかしと、うんざりするようなしみったれたごまかしだなんて、人の上に立つ人間のやりざまじゃねえぞ」

 私が今回の騒動についてつくづくうんざりしているのは、知事に対して問われている当のものが、いつしか「事実」や「疑惑」ではなくなっている報道のあり方が、あまりにも劇場的だからだ。

 報道スクラムは、ある段階から、事実そのものではなく、舛添さんの「態度」「振る舞い方」「口のきき方」「論理の組み立て方」「金銭感覚」あるいは、「人格」や「人生観」が裁かれるステージに移行していた。そして、そこから先は、ただひたすらに「舛添の卑しさ」と「舛添のいけ好かなさ」をあげつらっては袋叩きにする狐狩りのごとき集団娯楽が繰り広げられ、コロシアムの真ん中で苦しむ生け贄を眺める観客の顔には、薄ら笑いが浮かべられていた次第だ。