形式論理で話をすれば、「言論弾圧を許すな」という声も、糾合の仕方や運動のまとめかた次第では言論弾圧のための道具として利用できるわけで、「言論」と「表現」をめぐるせめぎあいは、どこまで行ってもいたちごっこの部分を含むことから逃れられない。

 歌への抗議を抗議への反発が圧倒している今回のような事態が生じている背景には、世代によって「ロック」という言葉の受け止め方が違ってきているからだと思う。もう少し詳しく述べると、「ロック」というというイディオムが内包している「反抗」「抵抗」の対象が、ある年齢よりも若い世代の人々にとっては、すでに「公権力」や「政権」や「体制」ではなくなってきている、ということだ。

 たとえば商業ロケンローラーにしてもお笑い芸人にしても、自分たちのネタにクレームをつけてくるのは、「政府」や「当局」ではない。

 苦情を寄せてくるのは、圧倒的に「良識派の視聴者」や「人権団体」である場合が多い。テレビ局のディレクターが右顧左眄しつつ動向に気を配っているのも、実は「与党」や「政権」よりも、「野党の有力政治家に連なる反差別団体」や「活動家」だったりするわけで、してみると、彼らが当面自分たちの戦うべき敵として意識する対象は、「政府」「政権」「権力」「与党」ではなくて、「視聴者」「リベラル」「野党」「フェミ」「人権」「ポリコレ」ってなことになる。

 この問題については、いずれ別に項目を立てて考えなければならないと思っているのだが、今回はすでに行数を書きすぎたので結論を急ぐ。

 振り返ってみれば、はるか30年ほど前に、ビートたけしという名前の芸人が、たしか「週刊プレイボーイ」に掲載されたインタビューの中で、
 「オイラは右翼だよ」
 と宣言していたものだった。

 当時、その記事を読んだ私は、
「これはまた見事な逆張りだなあ」と無邪気に感心していたのだが、ことここに至った現時点から振り返って見るに、じつに1980年代初頭のまだ「ポリコレ」という言葉も何もなかった時点で、すでにして、あのビートたけしという男は、良い子ちゃんの行動規範に堕した戦後民主主義的サヨク人権思想がひとっかけらもロックじゃなくなっていることに気づいていたわけなのだな。

 私個人は、もう20年以上前の時点で、ロックは死んだと思い込んでいたのだが、どうやらその考えは間違っていた。

 ロックは、私が知っていた時代のそれとはまったく別の、どうにも始末に負えない不死のゾンビとして、目の前に立ちはだかっている。

 御霊にでもなるほかに、対抗するすべはなさそうだ。
とても困っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

対抗するなら御霊というより、怨霊じゃないでしょうか。
個人的に「実況中継」はちょっとイカす曲だと思います。

 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ました。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。


 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

■変更履歴
記事掲載当初、本文中で「民放のサッカー放送のテーマ曲」としていましたが、正しくは「民放のサッカー放送のテーマのカップリング曲」です。お詫びして訂正します。本文は修正済みです [2018/06/15 11:00]
民放のサッカー放送のテーマのカップリング曲