「僕らの燃ゆる御霊」にしても「波がくれども」にしても、あたりまえに古典文を読んできた人間なら第一感で気持ちの悪さを感じるはずのところだ。逆に言えば、この程度のゲロゲロ古典文さえチェックできていなかったということは、結局のところ、この歌が、校閲者なりの他人の目を通ることなく、あるいは、その目があっても反映されることなく商品化されてしまったことを意味している。

 さてしかし、「HINOMARU」が炎上したのは、擬古文としての不自然さのゆえではなかった。どちらかといえば、炎上の焦点となったのは本作が偽物ながらも醸していた「軍歌っぽさ」の方だった。

 で、批判が集中したことを受けて、作者の野田洋次郎氏は、謝罪をしている(こちら)。

 現在のところ、この話題をめぐって熱く議論されている論点は、
 「謝罪が必要だったのか」
 という点と、もうひとつは
 「気に入らない歌に集団で抗議するのは、言論弾圧ではないのか」
というポイントだ。

 以上の2点について、以下、簡単に考えを述べておく。
 謝罪は不要だったと思う。

 この歌に不快感を抱いた人々がいたことは事実だが、そんなことは謝罪を求められる理由にはならない。どんな歌であっても、不快に感じる聴き手はいる。それだけの話だ。

 歌を歌う人間は、自分の信じるところを歌えば良い。それを聴いて不快に思った人間は、その旨を訴えれば良い。それだけの話だ。特定の民族やマイノリティーをあからさまに差別しているとか、誰かの名誉を明らかに毀損しているとか、歌の出来上がりそのものが誹謗中傷で構成されているとかいう極端な事例でない限り、歌は自由に書かれ、歌われ、聴かれるべきものだ。

 歌であれ文章であれ映像作品であれ、個人が制作する制作物である以上、万人に愛されることはあり得ない。まして、作り手が真摯に取り組んだインパクトの強い作品であれば、それだけ誰かを傷つける可能性も大きくなる。とすれば、誰かが傷ついたからという理由でいちいち謝罪するのは馬鹿げてもいれば、馬鹿でもある。

 もし仮に、誰一人傷つかない作品があるのだとしたら、その作品には力がないと考えなければならない。

 咲いた咲いたチューリップの花がといった調子の歌でさえ、特定の花に特有の記憶を固着させている人間の心に爪痕を残すことはあり得る。そう思えば、「傷つけた」などという言葉を口にすること自体が馬鹿な態度だったと申し上げざるをえない。

 おそらく、野田氏が謝罪したのは、W杯の開幕を間近に控えて、炎上を早めに鎮火させることを、クライアント筋から求められた結果なのだと思う。

 してみると、炎上の責任は、自局が展開する応援歌という枠組みの中にこういう「それっぽい」作品を放り込んでみせたテレビ局のキャンペーン展開のぞんざいさに求められなければならない。

 若い世代の楽曲制作者が、古文の素養を欠いていたことを責めるのは適切な態度ではない。「それっぽい」歌を書こうとした結果がなんちゃって軍歌ポップスに着地してしまった経緯も仕方のない展開だと思う。よって、RADWIMPSには何の責任もない。

 次に、言論弾圧について。
 まず、6月12日に「HINOMARUに抗議するライブ会場前アクション」という名前のアカウントから以下のような呼びかけのツイートが配信された。

《RADWIMPSの『HINOMARU』に抗議し、廃盤と2度と歌わない事を求めるライブ会場前行動
6月26日(火)17時~夜まで@神戸ワールド記念ホール前
集まろう!
絶対に許されない歌を出してしまいました。バンドとレコード会社は表明して下さい。ファンの方々は求めて下さい。それが解決策です。》(こちら

 このツイートは、記事執筆時点で、1050回RTされ、446の「いいね」を獲得している。