別の感慨もある。
 具体的には、この歌の歌詞の中で使われている古語風の言い回しの不徹底さというのか中途半端さに当惑させられたということだ。
 で、その場で、以下の二つのツイートを発信した。

僕らの燃ゆる御霊 って、自分に敬語使ってる感じ?

「遥か高き波がくれども」のところもなんだかきもちわるい。どうしても文語っぽく書きたいんだったら、「きたれども」にしておくほうが良かったところだと思う。

 古語は厄介なツールだ。

 私もときに使う機会がないわけではないのだが、使用はツイッター上で狂歌を詠む場面に限っている。つまり、パロディ目的以外では使わないでいる。

 理由は、正確に使いこなす自信がないからでもあれば、効果を疑っているからでもある。

 なによりもまず、古語ならびに歴史的仮名遣いは、誤用すると馬鹿丸出しに見える。この点が非常につらい。

 しかも、誤用しやすい。理由は、古語とは言っても、自国の言語であるだけに、かえって勘違いに気づくことが難しいからだ。外国語なら、辞書の力を借りて、なんとか間違いを正すことができる。ところが、古語の場合、古語の現代語訳を集成した辞書はあっても、現代語を古語に翻訳する使用法に特化した辞書が見当たらない。探せばどこかにあるのかもしれないのだが、普通の人は持っていない。少なくとも私は知らない。

 さらに、古文は、当該の言葉とその用例が、どの時代の、どの階層の人間による、どんな関係性の中での発話であるのかがはっきり確定しないと、正解を見出せない仕様になっている。同じ古文でも源氏物語の文体と、平家物語の文体は徹頭徹尾まるで別の世界の言語だし、徒然草と好色一代男の文章もはっきりと別のものだ。混用したらえらいことになる。

 ということはつまり、専門で研究している学者でもなければ、破綻のない擬古文を自分の手で独自に書き起こすことは、ほぼ不可能なのですね。

 かといって、仮に正確に使いこなすことができたのだとしても、たいしてありがたがられるわけでもない。
 むしろ、イヤミったらしいはずだ。

 そもそも現代社会に生きるほとんどすべての人間にとってなじみのない言葉や語法を用いて文章を書くことは、そのことだけでも相当に「気取った」「これ見よがし」な、「教養をひけらかしているっぽい」態度なわけで、だとすると、そういういけ好かない人間が、いけ好かない文章を振り回している場面でミスを犯すのは、これは爆発的にみっともないやりざまということになる。

 たとえばの話、フランス料理の店でギャルソンを呼びつけて、フランス語で食事を注文するのは、これはかなりリスクの高い振る舞い方だ。そこで、メロンを頼んでマロンが出てきたりしたら目もあてられない。

 何を言っているのかわからないムキもあろうかとは思うが、とにかく、そこいらへんのビストロで半端なフランス語を振り回してはいけないのと同じように、表現者たるもの、古典教養に関して満腔の自信を抱いているのでない限り、擬古文で歌を書くなどという暴挙に挑んではならないのである。

 それでも時々私が古語を使ってみたくなるのは、狂歌をカマす時などは、古語を使った方が断然「それらしく」なるからだ。「それらしく」というのは、つまり粋に構えた通人の狂歌っぽく仕上がるということで、どうせ拗ね者の捨て台詞ならせめて古体な口ぶりで演出しようではないかという意地みたいなものでもある。

 不思議なのは、地上波民放局がそれなりに社運を賭けたイベントであるはずのW杯サッカー中継のテーマソングを商品化するにあたって、しかるべきチェックが行われていなかったのか、ということだ。