おそらく、この先は、

 「もうグダグダと議論している時間はない」
 「この期に及んでおまえはまだあーでもないこーでもないと、重箱の隅をつつくのか?」
 「だから、やると決まった以上あとは国民が一丸となって突っ走るしかないじゃないか」

 てな調子で、さらにデタラメな決断が次々と押し付けられることになるだろう。
 しかも、記録は残らない。

 長野五輪の記録が破棄され、森友学園をめぐる財務省のデジタル記録が機器のリニューアルにともなってまるごと消去されようとしているのと同じように、五輪に関する拙速な決断と意味不明な支出を裏付ける資料や議事録や書類や伝票の類は、いずれ、どこへともなく、消えていくに違いないのだ。

 時間切れについては、私自身にも、多少身におぼえがある。
 毎度、原稿執筆について、同じ手法を援用している自覚があると言っても良い。

 具体的には、
 「いますぐに書き始めないと絶対に間に合わないギリギリのタイミングで書き始める(っていうか、そのタイミングまで書き始めない)」ことによって、テーマへの迷いや、推敲時の逡巡や、炎上を予想しての執筆意欲の減退を回避しているということだ。

 時間が無いことは、決断の軽率さや、作業の粗雑さや、予測の甘さといった、本来なら許されないはずのいくつかの手続きを正当化してくれる。
 してみると、執筆家にとって、締め切りは圧迫のようでいて、実は福音なのである。

 であるからして、迷うことの嫌いな人間(←条件さえ整えばいつまでだって迷っているタイプの優柔不断な人間)や、真面目に考えるのが苦手な人間は、強制的な決断をもたらす時間切れの効果に、結局のところ依存することになるのである。

 古い知り合いに、住んでいる部屋が本でいっぱいになる度に引っ越しを繰り返している男がいるのだが、彼の不決断の生き方も時間切れ寸前まで決断を引き伸ばす締め切り依存人種とそんなに変わらない。

 彼が普通に生活していると、本はどこまでも増殖する。

 で、ある時期がやってくると、必ず書棚の整理をせねばならないタイミングに直面するわけなのだが、その時が来ても、彼は、自分がどの本を書棚に残して、どの本を廃棄して、どの本を古書店に売却して、どの本を知人に寄贈するのかを、まったく判断することができない。というよりも、その作業に直面する度に、彼は、完全に度を失って惑乱するのである。

 で、いくつかの段階(玄関の書籍アーチ化、浴室の書庫化、キッチンの書棚化、就寝スペースの消失、書籍タワーの崩壊などなど)を経て結局、引っ越しを決断するに至る。

 引っ越しにともなって、余儀なく、住んでいる空間の半分以上の容積を専有する書籍の処分を、「決断することなく」迎えるに至るわけなのである。