森友学園のために助言や協力を試みたのも、自分の政治的信条に共鳴してくれている教育者を応援しようとした熱意のあらわれであって、たしかに、公正な行政手続からはみ出している部分があったことは否定できないのかもしれないが、それにしたところでたいした問題ではない。というのも、政治家の「影響力」とは、つまるところ「公正な行政手続からはみ出すこと」そのものを指す言葉なのであって、だとすれば、「公正な行政手続を多少とも歪曲させる」ことができる政治家こそが、結局のところ「強い政治家」だということになる。

 実際、一部のマスコミや有識者が、政治腐敗の極致であるかのようにことさらに批判している「ネポティズム」(縁故主義)を、
 「そんなに悪いばっかりのものでもないだろ?」
 と考えている日本人は少なくない。

 現実に、仕事の回し合いや、社員の採用でも、縁故主義はわれわれの社会の有力な基本線であるわけだし、民間であれお役所であれ学校であれメディアであれ、われわれは、あらゆる場面でよく知った顔を優遇し、よく知っている人々に特別扱いを受けることで自分たちにとって居心地の良い社会を育んでいる。とすれば、お上品ぶったメディア貴族の記者連中や、きれいごとの言論商売で口を糊している腐れインテリの先生方がどう論評しようが、オレは非人情で公正な四角四面の政治家なんかより、清濁併せ呑む度量をそなえた懐の深い人情味溢れた昔ながらの政治家の方が好きだよ、と考える人々が一向に減らないことを、一概に日本社会の後進性と決めつけてばかりもいられないのだろう。

 その種の、現実に目の前で起こっていることこそが人間の社会の本当のリアルで、本に書いてあるみたいな小難しいリクツは、要するにアタマの良い連中がこねくり回してる絵図以上のものではないと考えている人々にしてみれば、あらまほしき立憲政治の建前だの、正しい民主政治の手続きだのみたいなお説教は、

 「なんだかタメになりそうなお話だけど、オレは忙しいんで、ひとつそこにいる猫にでも教えてやってくれよ」

 と言いたくなるテの退屈なお題目なのであろうし、憲法にしろポリティカル・コレクトネスにしろ一票の重さにしろ文書主義にしろ、その種の社会の授業の中で連呼されていた一声聞いただけでアクビの出て来るタイプの言葉には、嫌悪感は覚えても、ひとっかけらの親近感も感じないはずなのだ。

 つい昨日、ツイッターのタイムラインに流れてきた画像で考えさせられたのは、「月刊WiLL」という雑誌の6月号の写真だった(こちら)。

 見ると、表紙の一番右に
 「危機の宰相は独裁でいい」
 という大きな見出しが掲げられている。

 編集部がこういう見出しをトップに持ってきたことは、この種の主張を歓迎する読者がそれだけいることを見越した上での判断なのだとは思う。

 おそらく、信頼できる独裁者による政治のほうが、いつも議論ばかりしていて話が先に進まない議会制民主主義の非効率な政策決定過程よりもずっと合理的で果断でスピーディーであるはずだ、と考えている有権者は、おそらく多い。

 で、そういう人々は、立憲主義が危機に陥っていようが、文書主義が死に直面していようが、
 「そいつらは、やけにカラダがよわいんだな」
 くらいにしか思わないわけで、結局のところ、弱い者の味方をしているつもりでいるいい子ぶりっ子の連中の言い草が不愉快なわけだ。