たとえば、これがスポーツやゲームの世界の中の話なら、ホリエモンの主張はほぼ100%正しい(「ほぼ」と言ったのは、スポーツの中にも、「アンリトン・ルール」と呼ばれる仲間内の不文律が介在していたりするからだ)。

 サッカーのストライカーは、オフサイドぎりぎりのラインを狙って動き出すし、それを防ごうとするディフェンダーは、敵方の選手を騙すべくタイミングを合わせて一斉にオフサイドラインを上げにかかる。いずれもルールの限界を狙い、あまつさえ積極的に敵を騙そうとするしぐさだ。

 野球にはもっとあからさまな「隠し球」という詐欺的なプレイがある。

 それほど露骨でなくても、キャッチャーのサインにあえて首を振って見せながら、3回首を振って最初と同じ球を投げるみたいな駆け引きは、バッテリー間では、常に展開されている。

 別の言い方をすれば、ゲームというのはそもそもルールの範囲内でいかに敵の裏をかき、どうやって審判の目をごまかすのかを競い、その詐欺的な手練手管を含めて楽しむための枠組みなのであって、そういう意味では、ルールの範囲内であればどんなことをやってもかまわない。

 しかしながら、納税はゲームではない。ビジネスもゲームではないし、われわれがこの世界で生きていることも、純粋な意味でのゲームではない。

 ゲームではない、というのはつまり、現実の世界における生身の人間のやりとりは、必ずしも「ルールの範囲内であれば何をやってもかまわない」というゲームの原理だけで動いているものではない、ということだ。

 リアルな現実世界を動かしている原則は、ゲームの場合とはむしろ逆だったりする。

 ゲームの世界では、まずルールがあって、その定められたフィールド(あるいはコート)の中の、定められたレギュレーションの範囲内で、プレイヤーが技術と知恵を競う決まりになっている。カジノでも麻雀でもサッカーでも理屈は同じだ。ゲームの世界では、ルールがプレイヤーを支配している。ということはつまり、ルールの範囲内であればあらゆるプレーが「アリ」ということになる。

 ところが、現実世界を支配している原理は、必ずしも法律だけではない。
 われわれの世界は、どちらかといえば、最初に倫理なり道徳があって、それを実現するために法律が定められるという順序でできあがっている。

 いまでも法哲学の最初の授業では、自然法があってその後に成文法ができるというお話が繰り返されていると思うのだが、実際、われわれの社会は、道徳を実現するために法律を定めましたという体で建築されている。少なくとも建前の上ではそういうことになっている。その逆ではない。

 つまり、ゲームの世界みたいに、ルールだけが唯一のよりどころで、ルールを守ってさえいれば道徳なんていう年寄りくさいゲロみたいなちいちいぱっぱはクソクラエだぜ、な世界とは成り立ちが違うということだ。

 ホリエモンの発言に共感しているのは、この世界をゲームの理屈で渡って行くことを夢見ている人々だ。

 で、ここから先は私の憶測なのだが、グローバリズムが志向しているものの先には、ゲーム志向の人々が理想としているゲーム的な世界が広がっている。つまり、彼らは、この世界を、金融ゲームを展開するための弱肉強食のゲーム盤に変えたいと願っているわけだ。