私は、マクロン氏の結婚が不純で異様で彼らの結婚に至った過程が不道徳だった点をメディアがあげつらわないことに不満を漏らしているのではない。
 逆だ。
 私は、フランスの大統領であれば祝福され賞賛され選挙戦における投票フックにすらなる配偶者との関係が、どうして日本の芸能界や政界では、炎上の火種になり、燃料になり、糾弾の標的になり、活動休止や議員辞職の理由になるのかということについて、問題提起をしているつもりだ。

 海の向こうのセレブに対しては寛容である同じ人間が、どうして自分たちの身近にいる人間に対しては、これほどまでにケツメドの小さい態度で接するのか、その理由をはっきりさせなければならない。

 ずっと昔、歌手の沢田研二がまだジュリーと呼ばれていた頃の話をする。

 1970年代の後半から80年代にかけて、彼は、同じプロダクションのとある先輩歌手と結婚していたのだが、その一方で、ある時期から、さる女優と交際していた。この二人の交際は、やがて週刊誌にスッパ抜かれ、以来、やれ「不倫」だ「裏切り」だ「逃避行」だと、毎週のように厳しい言葉で糾弾されることとなった。

 で、そういうきびしい時代が何年も続いたあげくの果てのある日、妻が離婚を承諾し、不倫の二人は、晴れて結婚した。

 と、その瞬間に、女性週刊誌の論調は
 「ジュリー、T中Y子愛の軌跡」
 ってな調子の祝福に変わった。

 まるでたった一日で世界の文法がひっくり返ったみたいに、全ゴシップメディアの書き方が、軒並み悪意から好意に転換したのである。

 あるいは、所属プロダクションや有力者を通じて、何らかの働きかけなり手打ちなりがあって、それで、「話がついた」ということなのかもしれないし、離婚協議の中の条件のひとつに報道についての一文が添えられていたのかもしれない。

 真相はわからない。あるのだとしても私は知らない。
 それにしても、なんというご都合主義だろうか。

 私は、この時の芸能マスコミの手の平返しについて月刊誌で感想を書いたのでよく覚えているのだが、その時に書いたのは、結局のところ、芸能マスコミは、特定の誰かの立場の正義を代表しているわけではなくて、「結婚」という制度の味方をすることでお茶をにごしているということだった。

 不倫も裏切りも逃避行も泥棒猫も、「結婚」の二文字を得るや、「愛の軌跡」という美しい物語に読み替えられるわけで、なんのことはない、メディアは、生身の人間の交際をその交際の実体に即して評価しているのではなくて、単に書類上の正当性から後押ししているだけだったのである。

 あれから何十年かが経過して、さすがにうちの国のマスコミも他人の色恋沙汰を追いかけ回すテの報道から足を洗ったと思っていたら、昨年来の文春砲の連発だ。