当選が決まった翌日にあたる5月8日の朝日新聞は、マクロン新大統領とその夫人であるブリジッド氏の来歴を記した「マクロン氏、大恋愛の末に 25歳年上の既婚高校教師と」という記事を掲載している。

「大恋愛」

 という単語が見出しに掲げられているのを見て、私はちょっと笑った。
 久しぶりに見る大時代な言葉だと思ったからだ。

 「大恋愛」は、私の脳内では

 「新派大悲劇」

 だとか

 「昭和枯れすすき」

 といったあたりの言葉と同じ箱に入っている。
 とてもではないが、新聞の見出しに持ってこれる物件ではない。

 私自身、生まれてこの方、他人をからかう時以外に、この言葉を使った経験はない。
 それほど大仰な言葉だということだ。

 この二人の関係のどの部分を指して朝日新聞は「大恋愛」と言ったのだろう。

 二人の間に25歳の年齢差があることだろうか。
 マクロン氏が15歳の高校生だった時に出会ったという、その年齢のまばゆさのゆえだろうか。
 あるいは、出会った時にトロニュー氏が既婚で3人の子を持つ母であったという境遇のブラームスがお好きっぽい異例さが、「大恋愛」という振りかぶった言葉を召喚せずにおれなかった理由なのであろうか。

 勝手に想像すればだが、二人の間には、巨大な時間と境遇の違いに加えて、婚外交際という道ならぬ恋の気配が横たわっていたわけで、だからこそ、記者は、それらの逆風と困難を乗り越えて結ばれた夫妻の行きがかりに「大恋愛」というタグを貼り付けたくなった、と、まあ、大筋の話としては、そういうなりゆきだったはずだ。

 この記事を書いた朝日新聞の記者の見方は、私の個人的な感覚と、実は、そんなにかけ離れていない。
 つまり、私は、マクロン夫妻の結婚を「大恋愛」の結果だとする見方に、基本的には同意するということだ。

 にもかかわらず、私が、見出しを見た瞬間に、こみあげてくる笑いを抑えがたく感じたのは、「大恋愛」という言葉がおかしかったというよりは、他人の恋愛事情に言及する時の、われわれ自身のご都合主義に自嘲の気持ちを抱いたからなのだと思う。