これまた驚くべき発言だ。

 形式論理上の話をするなら、どんな組織にだってあらゆることが起こり得る。この点は間違いない。真鍮の鼻輪を装着した官僚が全裸で勤務しているケースだって可能性としては皆無とはいえないだろう。

 が、だからといって、すべての不祥事を個人の資質の問題に還元して良いという理屈にはならない。

 というよりも、セクハラのような事案を個人の資質に帰して放置する組織があるのだとしたら、その組織には責任の回路が存在しないことになる。

 警察官による発砲事件が、どの警察署でも起こり得る問題であるからといって、警察官による発砲を個人の資質の問題として不問に付すことは許されない。

 というよりも、問題は、特定の事件が特定の組織内で起こり得るのかどうかではなくて、起こり得るかもしれないその事例について、責任ある立場の人間がどのような態度で臨むのかというところにある。

 つまり、発砲事件を起こした警察官が所属していた当該の警察の署長なり警察庁の長官なりが、

 「発砲事件はどこの警察署でもあり得る。そういった意味では私どもとしては組織としてどうのこうのという意識で思っているわけではない。個人の資質とか、そういったものによるところが大きかったのではないかなと思っています」

 みたいな寝言を言って無事で済むはずがないことを見ても分かる通り、これは、個人の資質とか組織の問題とかいった論点を持ち出すような話ではなくて、組織のメンバーがやらかした不祥事について誰が責任を取るべきであるのかという極めてシンプルな話題なのである。

 で、その話題について、大臣は

 「オレは責任を取らない」

 と明言した、と、私は、そういうふうに受け止めている。
 なるほど。

 ここまでのことを明言した以上、大臣は自分の発した言葉の責任を取らなければならないはずだ。
 だがしかし、ここまでのところを書いてきて、私は実のところ徒労感に似た感慨に襲われている。

 というのも、私がここで書いた理屈は、あまりにも当たり前で、あまりにも言い尽くされていて、どうにも凡庸で、それどころか、もしかすると退屈だったかもしれないと自覚しているからだ。

 麻生さんの度重なる暴言がなんとなく看過されている背景には、実は、このことがある。

 このこととはつまり、麻生さんの暴言を指摘する議論が「退屈」だということだ。

 もう少し詳しく説明すれば、政治向きの発言や議論を「退屈」と見なす態度こそが「クール」な現代人の証であるとするマナーが、世の中で一般化しているということだ。

 麻生さんが就任以来繰り返している不遜な発言は、あまりにも馬鹿げているがゆえに、一種の「背景」になってしまっている。

 麻生さんのような「キャラ」は、一定のタイミングで暴言を吐くのが当たり前な日常で、心理学で言うところの「図」と「地」で言えば、「地」になっているということだ。

 であるからして、多くの人々は、麻生さんの暴言に「馴れ」ている。
 また同時に、彼らは麻生さんの暴言を問題視する人々の言いざまに「飽き」てもいる。