言葉が言葉としての本来の意味を喪失しているからこそ、われわれは、その「真意」を「忖度」して職務権限の遂行に協力したり、その「揚げ足を取る」ことで責任を追及せねばならなくなっている。
言葉は、固有の意味を持っている。
普通はそういうことになっている。
ところが、うちの国の組織の中では、言葉はしかるべき「文脈」に照らし合わせないと意味を発揮することができない。
だからこそ、現場の人間は、「言葉」でしくじる。
というのも、「言葉」は「責任」を伴っているからで、その扱いを誤った人間は、当然のことながら、「言葉」に殉じなければならないからだ。
一方、権力者は、直接には「言葉」を発しない。
なぜかといえば、腐敗した社会の権力者は「権限」は行使しても「責任」は取らないからで、そのためには、「言葉」を介さない暗黙の示唆に徹することが一番安全だからだ。
彼らは、目配せ(党内には「二階から目配せ」ということわざがあったのだそうですよ)だけで指示を完了することができる。
あとは、現場の人間が、その目配せや腹芸や口裏、あるいは鼻薬を「忖度」して、実質的な「指示」に翻訳する。
と、作業の責任は、どこに求められるだろうか。
目配せをしたボスだろうか?
違う。
忖度システムの中では、何らかの不都合が生じた場合、ボスの目配せを「忖度」して「指示」に翻訳した現場の人間が責任を負うことになっている。
一方、「揚げ足取り」が横行する報道の現場では、「真意」の凶悪さより、「言語運用の稚拙さ」の方がより大きな記事スペースを獲得し、大きな罪として断罪されることになっている。
なんとばかばかしい話ではないか。
とはいえ、この私たちのばかばかしい社会は、われわれが言葉を軽んじた結果として生じているものでもある。
それがいやだというのなら、この不愉快な世の中を少しでも改善するべく、われわれ自身が、言葉に対して誠実に向かう努力を開始せねばならない。
で、提案だが、言葉の復権のために、まずコラムニストを優遇するところからはじめるというのはどうだろうか。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
魚心あれば水心で、校了の時間繰り上げをお願いしたく存じます。

当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。
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