この傾向は、実は、就活戦線にも影響していて、新卒の学生たちは、自己を表現することそのものよりも、「場の空気を読む」タイプの受け身のコミュ力を期待されている。で、就活生たちは、無慈悲な産業社会の要求に応えるべく、今日も喪服みたいな格好で焼香に似た就職活動を続行している。

 これらのことは、うちの国の職業社会が、

 「魚心あれば水心」
 「以心伝心」
 「一を聞いて十を知る」
 「阿吽の呼吸」
 「ツーと言えばカー」

 といった感じの、ほとんどテレパシーに近いイワシの群れの群泳みたいな動作原理で動いているからでもある。

 われわれは、言語として明示されない空気みたいなもので意思疎通をはかっている。
 だからこそ、不用意な言葉を使った人間は罰を受けねばならない。

 つまり、むき出しの言葉を使う人間は、コミュニケーション能力の低い人間で、本当の達人は言葉なんか使わないでも自分の意思を伝えることができるみたいな、「不射之射」じみた謎のコミュニケーション信仰がわれわれを害しているのである。

 現代の日本でとりわけコミュニケーション能力が重視される傾向は、われわれが民族的にも文化的にも言語環境の上でも、極めて同質性の高い社会を形成していることと、もうひとつは、近年、産業構造が高度化した結果、ほとんどすべての被雇用者の業務が、社内外で「人間」を相手にする、サービス業に近い要素を持つ仕事にシフトしていることに関連している。

 われわれは、コミュ力の低い人間を冷遇せざるを得ない社会で暮らしている。

 21世紀の日本人は、一方ではお客様や上司の隠された意図を忖度することを求められ、他方では、モンスタークレーマーやパワハラ上司に揚げ足を取られないように身構えなくてはならないわけで、ということは、言語運用に関して異様なばかりに慎重に構えざるを得ない。

 かくして、われわれは、日本語という「ニュアンス豊かな」というよりも、「場面によってどうにでも響く曖昧な」言語の曖昧さの中に責任や権限を融解させる気持ちの悪い社会を完成させるに至ったわけだ。

 念のために断っておく。
 このお話は、私がいまこの原稿を書きながら思いついた仮説に過ぎない。
 なので、アタマから本気にしてくれなくてもかまわない。

 ただ、森友学園をめぐる一連の答弁や、今村大臣の度重なる失言に関するご都合主義の報道を眺めながら、私がこの3カ月ほどの間、あれやこれやで感じているのは、この国の社会が、結局は、そのほとんどがトカゲの尻尾でできているということで、だからこそ、その誰がトカゲの頭で、誰がトカゲの尻尾なのかを決するために「言葉」が利用されているのではなかろうかという疑いを捨てることができないのだ。

 どういうことなのかというと、私は、21世紀の日本で「忖度」や「揚げ足取り」が横行しているのは、われわれの社会が「言葉」を軽んじているからだと思いはじめている、ということだ。