彼らは、オダジマが、政治的な意図から、とにかく原発憎しの結論をあらかじめ奉じていて、そのために原発を停めるための理屈をひねり出して強弁してくどくど訴えているように見えている。で、その、政治的な振る舞い方の政治っぽさが政治的に許せないから、罵倒している。そういうことだ。

 もとより、私には、震災を政治的に利用するつもりはない。
 そうする理由もない。

 ただ、一言言っておかなければならないのは、このたびの地震のような国家的な災害は、誰がどう関わるにしても、政治的な対象として関与するほかにどうしようもない事件だということだ。

 災害に政治的な態度で取り組むことは、不潔なことではない。
 むしろ、そうあってしかるべき、当然の帰結だと言って良い。

 現政権には現政権の立場があり、それに対抗する勢力には彼らの思惑がある。その、双方ともに政治的な手段を通じて自分たちの理想を実現しようとしている政党なり政治集団が、今回の地震のような社会的な一大事を、政治的に利用するのは、極めて当然のなりゆきだ。

 あるいは、「利用する」という言い方に反発をおぼえるムキもあるかもしれないが、この度の地震のような天災の機会を通じて、それぞれの政治勢力が、被災者なり彼らを心配する一般国民なりに訴える政治的パフォーマンスの巧拙を競うことそのものは、決して有害なできごとではない。

 とすれば、一方が原発の運転の続行による電力の安定供給をアピールし、対抗する側が、安全と安心のために原発の一時停止を訴えることは、民主政治が機能している国での健康ななりゆきと考えて差し支えない。

 この長い、少々まとまりを欠いた原稿を通じて、私が何を言いたかったのかというと、大きな災害に見舞われたり、国家総動員的なプロジェクトが動き出したりした時に、「異論」を排除しにかかる圧力が生じがちなわが国のネット社会の動き方に、私が、大きな懸念を抱いているということだ。

 お国の何かが危機に瀕していたり、未曾有の大災害に直面している時の心がまえとしては、二つの態度が考えられる。

 ひとつは、非常時であることをわきまえて、国民の一人ひとりが私心を捨てて一致団結してコトに当たるという処方箋だ。
 もうひとつは、非常時だからこそ、発言することのリスクを恐れずに、活発な議論を展開する態度だ。

 私は、個人的に、2番めの対処を心がけておいた方が、うちの国の国民が陥りがちな視野狭窄を回避する上で好ましいと考えている。
 その意味で、NHKのような組織が、安易にクレーマーに屈したことにがっかりしている。

 大地震以来、芸能人の「売名」を指弾し、慈善を訴える者の「自己陶酔」を揶揄し、笑顔を見せる人間の「不謹慎」を咎めているネット上の自警団じみた人たちは、原発のような論題に関しても、議論を挑むよりは、異論を排除する構えでコトに当たっている。

 私のツイッターアカウントに異論を寄せた人たちを見回してみても、「論」として、自分の主張なり考えを語ろうとする人たちよりは、ただただ罵倒して行く人々の方が数として多数派だった。

 残念なことだ。

 戦前の隣組は、地域社会の狭苦しさに基礎を置いた相互監視システムだった。

 現在のネット隣組は、インターネット空間の広大さと自由さの結果としてわれわれの前にあるわけだが、その「自由さ」と「広大さ」は、もっぱら特定の個人をあげつらって排除する人間たちの側にだけ供与される仕様になっている。

 ということはつまり、いつの間にやら、われわれは全国規模の隣組の一員になってしまっているわけだ。

 汝の隣人を愛せよ、と言った人がいるのだそうだが、砂漠の国の隣人とはちょっと条件が違うと思う。

 ところで、来週と再来週は本欄はお休みになります。
 3週間後に、この国が素敵な国にうまれかわっていますように。
 私が素敵な人間に生まれ変われば良いのかもしれませんが、それは無理です。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

個人的には、不快感はひとつの「感想」であって、
それ以上でもそれ以下でもない、と思います。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。