もちろん、能力が高いことそのものは、素晴らしいことだし、うらやましいことでもある。

 とはいえ、情報処理能力が、実は視野の狭さを条件に発揮される資質であることもまた一面の事実ではあるわけで、専門性の高い枠組みの中で結果を求められている人間が、いつしか、枠の外の世界と遊離した人間になりおおせることは、避けがたい宿命であったりもする。

 であるからして、特定の閉鎖環境の中で人並み外れた情報処理能力を競いつつ出世レースの階段を登っている人間たちは、その閉鎖環境の外から見て、自分たちがどんなふうに見えているのかという視点を失うに至る。

 というよりも、そもそも、とびっきりに優秀な人間だけが集まって互いの能力を競っているフィールドでは、外部の人間などものの数ではないのだ。

 陸上選手が、自分より速いタイムで走るアスリートをリスペクトせざえるを得ないのと同じように、ある特定の分野で特定の能力を競っている人間は、やがてその能力でしか人を評価しなくなる。

 であるから、陸上のトラックではタイムが、予備校の教室では模試の偏差値だけが絶対的な金メダルになる。

 もっとも、人は一生涯陸上部員であり続けるわけではないし、終身の受験生でもあり得ない。
 普通の人間は40歳を過ぎてなお自己記録更新に励み続けるような生き方は選ばないし、大学を出てなお別のさらに高偏差値の大学を受験することもしない。

 だからこそ、われわれは、自分の人生の中に、短距離走の持ちタイムだけで人間の価値を決めつけていた一時期があったことを、むしろ可憐な思い出として思い出す境地に到達することができる。

 ところが、競争をやめない人間は、競争レーンの外の視野を知らない。

 彼らは、自分たちが走っているトラックと別の場所で暮らしている人間を、自分と対等の存在だとは考えない。逆に言えば、そういう視野の狭い人間として生きることが、彼らの競争力の源泉なのだ。

 あるいは、さらに別の言い方をすれば、ある種の能力は、視野の狭さそのものだということでもある。

 ともあれ、彼らの中には、自分たちの結界の外にいる人間を昆虫かなにかみたいに考える極端なメンバーが含まれている。
 だからこそ、あれほど無機質なセクハラを発動することができるのだ。

 優秀さは、「比較」から生じる概念だ。
 とすると、順序からして、他人を見下す過程を経ないと、人は「優秀」な状態に到達できないわけで、逆に言えば、「優秀」であるためには、自分より劣った人間に囲まれなければならないことになる。

 つまり優秀な人間は、他人を見下すことによってしか自分の優秀さを確認できないのだ。
 なんということだろう。