「なんだよそれ。どういう意味?」

 「だからつまり、われわれみたいな凡人は、助平なことを考えると全然仕事ができなくなっちゃうし、一方、大真面目に仕事に集中すると助平な妄想を持ちこたえられなくなるわけで、要するに、単能なのですよ、われわれは。で、その、同時にひとつのことしかできない能力の低さゆえに、わたしたち普通の男は、仕事中にセクハラをせずに済んでいるわけです。ということは、われわれは特に清潔な人間であるわけではなくて、単に能力が低いということです」

 「ははは。ってことは、福田氏みたいな能力の高い人間は、たとえばエロビデオ見ながらでも論文書けちゃったりするわけか?」

 「ぜんぜん書けると思いますよ。ついでにスマホでエロ動画見ながら会議資料用のパワポの編集しつつ通りかかった女性官僚に向けて6秒間に4回のセクハラ発言をカマすことだって朝飯前だと思います。だからこそ次官になれたんですよ」

 「ははは。オレもそういう人間になりたかった」

 もちろん、この話は、基本的にはジョークだ。
 が、あらためて振り返ってみるに、福田氏のセクハラ発言に「能力」という視点から光を当ててみた発想そのものは、そんなに的外れではなかったのではなかろうかと思っている。

 というのも、福田氏のセクハラ発言は、性的欲求の発露である以上に、他者全般への強烈な優越感が言わせている何かで、結局のところ、自身の能力への異様なばかりの自負の副作用であるに違いないからだ。

 一般に、勉強のできる子供は思い上がっているものだ。
 私自身、中学を卒業する段階までは成績の良かった生徒で、型通りに思い上がっていた。

 15歳の人間にとって学校の成績が優秀であることは、一点の曇りもない全能感をもたらしてくれるよすがでもあったということで、まあ、なんというのか、中学生というのは、それほど視野が狭いということです。

 もちろん、そんな状態はいつまでも続かない。思い上がった少年は、いずれ自分の能力の天井を知ることになる。あるいは、自分よりも能力の高いライバルに出会うことで天狗の鼻をへし折られる。

 その、得意の絶頂からの墜落の経験が何歳の段階で訪れるかによって、人格形成には多少のバラつきが生じるものなのだが、いずれにせよ、99.9%の人間は、子供時代の全能感を失うことと引き換えに大人になる。その意味からすれば、男の子が大人になることは、優秀さという夢から醒める過程なのだと言っても間違いではない。

 ところが、東大の法学部経由で財務省に任官して、しかも次官になる能力に恵まれた特別な人間は、転落も敗北も経験しないまま中年男に成長している。

 ということは、14歳だったオダジマが抱いていたような無限の全能感とともに58歳になっているわけだからして、これは極めてやっかいな人間に仕上がっているはずなのだ。