ということはつまり、求められているのは、一定時間内に一定量のノルマを、ダラダラとこなしながら、終業時間を待つことだった。

 これは、当時の中学生にとっても、比較的意外な要求だった。
 「だって、頑張ると怒られるんだぜ」
 「やり過ぎてないか、時々監視のヤツが見にくるんだから」
 と、彼らは証言していた。

 この話について、ある年かさの親戚が漏らした
「そりゃ、サボタージュ体質ってやつだな。あの組合の人間は、働けば働くほど損をすると考えているんだ」
 という解説を鵜呑みにしたわけでもないのだが、ともあれ、中学生だった私が、この時の郵便局の人間の働きぶりの話から強い印象を受けたことはたしかだ。

 「なるほど。頑張りすぎないように気をつけることが、自分の身を守る大切な心得であるような職場があるのだな」

 という私の当時の観察が正しかったのかどうかはいまとなってはよくわからない。

 ともあれ、昭和のある時代に、雇用側の労働強化に対する抵抗の仕方のひとつとして、ひたすらにダラダラ働く人々がいたことについては、この場を借りて、証言しておきたい。

 無論この話は、半世紀も前の逸話だし、当時、日本中のすべての郵便局の組合員がダラダラ働いていたわけでもないのだとは思う。でも、少なくとも、私の住んでいたあたりの郵便局の50年前の局員たちが、年末年始にアルバイトでやってきている中学生に、根を詰めて働きすぎることをいましめる旨の指導をしていたことは、事実なのだ。

 似た話はいくらでもある。
 いったいに、われら日本人が集まって働くことになる職場では、人並み外れて優れた仕事ぶりをアピールすることよりは、周囲の同僚の能力なり労働強度なりに同調することが重要視されることになっている。

 あんまりガツガツ働く態度は、あからさまに手を抜く仕事ぶり同様、最終的には白眼視を招く。

 この傾向は、昨今、コンサルだったり経営評論家だったりする人たちが繰り返し指摘している定番の日本特殊論エピソードのひとつで、概念的には「プロセスよりも結果が重視される諸外国の職場において、個々の働き手が自己裁量で仕事の進め方を決めているのに対し、結果よりプロセスが重視され、ひとつのプロジェクトをチーム単位で請け負うことの多いわが国の職場では、個々の労働者のノルマはチーム内の同僚の顔色から算出される」ぐらいなマイナスの実例として紹介されることになっている。

 まあ、おおむねその通りなのだとは思う。
 とはいえ、それでは、業務分担のあり方をチーム単位から、個人の責任に着する方向に改めれば万事解決なのかというと、たぶんそんなに簡単に話が運ぶことはない。

 われわれは、心の奥深いところで、みんなと一緒にダラダラ過ごす時間を至上の経験として重んじている。
 この設定は、簡単には変わらない。

 というのもわたくしどもこの極東の島国で暮らす人間たちは、伝統的に、成果を出すことや利益をあげることそのものよりも、みんながいっしょである状況を愛しているからだ。