ともあれ、これまでのところではっきり言えるのは、文科省の助言に従って伝承としての「江戸しぐさ」そのものの真偽を別にして議論するのだとしても、「江戸しぐさ」が伝えようとしている「礼儀」なり「真心」なりといった「道徳」が、つまるところ、復古的な伝統に基づく思想であり、昨今話題になっている「古き良き日本」を取り戻そうとする流れと無縁ではあり得ないということだ。

 官庁は、変わりにくい場所だ。

 仮にお役所のやっていることに何らかの間違いが発見されたのだとしても、間違いが間違いであることを指摘しただけでは、その間違いを改める理由としては承認されない。

 間違いを改めるためには、間違いが採用される以前の時点に遡って、間違いを採用してしまった人間の責任を追及し、間違いに基いて業務を遂行していた人々の罪を指摘せねばならない。

 であるからして、その種の自己否定を伴う作業は、始まった瞬間に、ほかならぬ作業の当事者によって葬り去られることになる。

 誰も使わないOHPシートがいまだに納入され続けていることも、PTAに関わるほとんどすべての人々がその作業の煩雑さに辟易しているベルマーク分類作業がいまだに学校のカレンダーから消去されていないことも、毎年のように不幸な負傷者を生み出している組体操が巨大な抗議の声にもかかわらず今年も全国各地で披露され続けていることも、甲子園の高校球児の服装規定が戦前の軍事教練の伝統を固守しつつ一向に改められずにいることも、根は同じだ。

 学校のような場所で、一度走りだしてしまった伝統は、たとえどんなに滑稽な姿を晒すことになっても簡単には改められない。なぜなら、官僚にとって、改めることは、自分たちの過去および現在を否定することで、とすれば、彼らが自分の地位を防衛しようとする限りにおいて、その地位の別名でもあれば保障でもある彼らの業務は決して改められないからだ。

 「江戸しぐさ」の中で掲げられている項目のひとつひとつを読み取る限りでは、特に問題となる記述は見当たらない。

 ただ、全体として「江戸しぐさ」の中で展開されている人間観を考えてみると、ここで語られている「しぐさ」が、「道徳」というよりは、定められた規矩からはみ出さないことを至上の心得とする身分制度下の「処世訓」であることに気づかざるを得ない。昨今、居酒屋のトイレだとかに貼ってある人生訓カレンダーみたいなものだ。

 あれは、「道徳」ではない。
 もっと娑婆くさい、なんたら十訓的な「説教」の類と見るべきだろう。

 さらに言えば、江戸商人の処世道徳であったという触れ込みで捏造された「江戸しぐさ」の精神の底流には、「武士は武士らしく」「商人は商人らしく」「使用人は使用人らしく」「丁稚は丁稚らしく」「娘は娘らしく」「母親は母親らしく」「貧乏人は貧乏人らしく」「農民は農民らしく」というふうに「身分」と「立場」を意識しつつ、常にその場その場での「分をわきまえる」ことを民衆に求めた封建社会の統治意識が濃厚に漂っている。要するに、これの「作者」ならびに後援者たちは、子供たちに、「慎み深さ」と「遠慮」を学習させることを望んでいたのだと思う。

 「江戸しぐさ」は、文科省の担当者がうっかりとその真相を物語っていた通り「真偽を教えることよりも、礼儀について考えてもらうこと」を重視する流れの中で採用されている教材だ。

 ということは、真偽の点でウソであっても、その精神において礼儀をアピールするものである以上、教材としては有効だというお話になる。