稲田朋美元防衛相は、今回の事態を受けて
 「驚きとともに、怒りを禁じ得ない」
 と述べ、あわせて
 「上がってきた報告を信じて国会で答弁してきたが、一体なにを信じて答弁していいのか。こんなでたらめなことがあってよいのか」
 とコメントしている(こちら)。

 なんという見事な被害者ポジションによる受け身のとり方であろうか。

 あるいは、稲田氏がコメントしている通り、彼女は、日報の存在をまったく知らされていなかったのかもしれないし、隠蔽工作や調査の実際についてもきちんとした報告を受けていなかったのかもしれない。

 でも、だとしたら、それは自衛隊という実力組織がその上司である防衛大臣の指揮を裏切って行動していたことを意味するわけで、ご自身の大臣としての無能さを裏書きする出来事でもあれば、政権内でシビリアンコントロール(文民統制)が失われていることを示唆する危険な兆候でもある。

 とすれば、現今の状況への感想を求められて「驚き」だとか「怒り」だとかいった、電車の中で足を踏まれたおばさんみたいなコメントを漏らしていること自体不見識なわけで、本来なら、自身の「監督不行届」と「力不足」を「痛感」して「痛哭」くらいはしてみせてくれないと計算が合わない。

 まして
 「こんなでたらめなことがあってよいのか」
 は、到底、責任者だった大臣が言って良いセリフではない。

 なぜなら、当時の指揮官である防衛大臣は、被害者でもなければ傍観者でもなく、言葉の正しい意味でかかる事態を招いた当事者であり責任者であり、より強い言葉をもって報いるなら、張本人でもあれば犯人ですらあるからだ。

 どうせ言うなら
 「こんなでたらめが進行していたことを知らなかった自分の無能さにめまいをおぼえています」
 ぐらいは言わないといけない。

 一連の事件には、いまだ不透明な部分が数多く残されている。
 今後、真相が明らかになるにしても、その頃には、問題自体が忘れられていることだろう。

 もっとも、大切なのは、今回の日報についてのピンポイントの真相そのものではない。
 私たちが考えなければならないのは、こんなにも大量の文書が、あらゆる場面で、廃棄され、隠蔽され、改竄され続けていることの理由についてだ。

 官僚は、本来、文書にウソを書くことができない人たちだ。
 当然、書いた文書を捨てることもできないはずの人たちでもある。
 少なくとも私はそう思っている。

 逆に言えば、文書にウソを書いた時点で、官僚は官僚としての生命を終えなければならない。
 そんなことを命じることができる人間がいるのだとすれば、それは官僚ではない。
 官僚に死を求めることができるのは、政治家以外にいない。