してみると、2004年~06年に書かれてから10年以上、不存在があらためて公式認定されてから数えても1年と2カ月ほど日の目を見ずにいた日報がわれわれの前に登場したなりゆきは、やはり「発見」という言葉を持ってこないと表現することができない。

 あらためて考えるに、1万4000ページに及ぶ公文書が「発見」されるに至った経緯は、考えるだに異様だ。われらのような凡人の想像を絶している。

 というのも、「発見」されるためには、「発見」に先立って、その公文書を誰かが「紛失」していないと説明がつかないからだ。

 とすると、1万4000ページに及ぶ公文書のヤマを、いったい誰がどうやって「紛失」できたものなのだろうか。

 仮に、なんとか周囲に気づかれることなく無事に紛失しおおせたのだとして、調査を命じられた人々は、その1万4000ページの日報のカタマリをどうやってこんなにも長い間見つけずにいることができたであろうか。

 私にはどうしてもうまい説明を思いつくことができない。

 とすれば、事ここに至った以上、そもそも「紛失」していたという説明がウソで、「発見」というのもウソの上塗りだったという可能性を考慮せねばならない。つまり、当初の段階で、存在していた日報を「ない」と言い張る「隠蔽」ないしは「虚偽答弁」がおこなわれていたということだ。そう考えた方が、その先の説明についてもずっと理解しやすくなる。

 では、どうしてあるはずの日報を「ない」と答弁せねばならなかったのだろうか。

 この謎を解くためには、今回「発見」されたイラク派遣の日報の話以前に、同じく自衛隊の南スーダン派遣(2012年1月~17年5月)の際の日報について、よく似たいきさつがあったことを知っておく必要がある。

 2016年の12月、防衛省は、陸上自衛隊の部隊がまとめた日報の情報公開請求に対し、廃棄して存在しないことを理由に不開示とした。だが、同じ月のうちに別組織の統合幕僚監部に保管されていた事実が判明、2017年の2月になって開示した。

 で、ここから先、国会答弁や報道とのやりとりが色々とあったわけなのだが、最終的には、日報についての説明が二転三転したことの責任を取る形で、7月には、このとき防衛相だった稲田朋美氏が辞任する。この間の事情は、以下のリンク先の記事に詳しい(こちら)。

 もう半年以上前に書かれたものだが、今回の「発見」に先立つ事態の背景がよく説明されていると思う。

 ともあれ、自衛隊としては、南スーダン派遣の際の日報を「廃棄した」と説明した時点で、PKO南スーダン派遣から遡ること10年前の、2004年から06年の記録であるイラク派遣の日報が残っていてはマズいことになるわけで、ということはつまり、イラク派遣の日報隠蔽の動機は、南スーダン時の日報の廃棄という国会答弁から事後的に発生したことになる。

 誰かの国会での答弁を受けて、事後的に隠蔽なり改竄なり口裏合わせの必要が生じるというこの展開は、民主主義国家の行政の過程としては極めて異常ななりゆきではあるが、縁故主義(ネポティズム)と、人治主義が猛威をふるう前近代的な独裁国家ではさしてめずらしいことではない。というよりも、独裁的なリーダーが官僚の人事を壟断している世界では、あらゆる行政的な決定事項は、ボスの鼻息をうかがう形で決裁される。少しも不思議なできごとではない。