大阪市内の路上に、840枚ほどの機密文書を含む国土交通省の廃棄書類がぶちまけられたのだそうだ。
1990年代制作のB級テレビドラマに出てきそうなシーンだ。
風に舞う文書。這いつくばって紙切れを拾い集める背広姿の職員たち。遠巻きに眺めながらヒソヒソ話をする主婦。なぜか周囲を走り回る野犬。あくびをする猫。無意味に全力疾走するオダユージ。民放夜8時の2時間枠で放送されるバカなサスペンス巨編にぴったりの絵だ。
もっとも、映像として「絵になる」のはその通りなのだとして、起こったことそのものは、たいした事件ではない。書類の廃棄を請け負った下請け業者が、運搬中に積荷を落としただけの話だ。国交省の体質が問われねばならないというほどのお話でもない。
ただ、タイミングがタイミングだけに、必要以上に注目されることは避けられない。
というのも、この何週間か、あるいはもっとさかのぼれば現政権が発足して以来のこの5年ほどの間を通じて、「文書」ないしは「書類」をめぐる前代未聞の事態が進行中だからだ。
してみると、廃棄書類がナニワの路上に散乱している絵面(えづら)が、絶賛興行中の行政文書受難物語を象徴するスラップスティックなトレーラー映像として世間の耳目を集めるのは、いたしかたのないところだ。
文書は官僚の仕事の結果でもあれば、そのよって立つ基盤でもある。
魂という意味で言えば、武士における刀に相当する存在だと言っても差し支えない。
官僚による文書の不当廃棄や、紛失や、あるいは隠蔽や、さらには改竄といった未曾有の不祥事が続発しているここしばらくの展開は、武士が丸腰で出仕したとか、城内で大小を紛失したとか、でなければ、差している腰のものが竹光でしたみたいな不祥事に相当するお話なわけで、世が世なら切腹を申し付けられてもおかしくない。
と、書き進めながら気づいたのだが、官僚にとっての文書を、武士にとっての刀になぞらえたのは不適切だった。撤回する。武士の刀は、形骸化した職能の象徴をスタイルとして残したドレスコードに過ぎない。大筋において甲子園球児の丸刈りや銀行員のネクタイと大差のないものだ。もっといえば、武士道における日本刀は「様式化された愚かさ」を忠誠のフックとして利用したアナクロニズムの発露なのであって、結局のところ、組織の構成員が陳腐な強制に従うことで保たれている秩序のための秩序といったあたりが、武士道の正体だったということになる。刀はその武士道という事大主義のちいちいぱっぱにおける統合の象徴というのかドーナツのアナというのか、いずれにせよ空虚な中心を穿つために用いられた滑稽千万な演出道具だったわけだ。
話がズレた。
大嫌いなサムライの話になるとつい余計なことを言い募ってしまう。
武士道大好きな皆さんは上記の十行ほどの内容は忘れてください。
私がお伝えしたかったことの骨子は、役人にとっての文書の重要性に比べれば、武士にとっての刀などしょせんはアクセサリーに過ぎないということだ。官僚にとって文書は手段でもあれば目的でもあり、結果でもあれば歴史でもある。かててくわえて、自らの存在証明でもあれば退路でもある致命的に重要な存在だ。寿司屋にとっての寿司ネタどころか鳥にとっての翼、犬にとっての尻尾、猫にとっての肉球に近い、それなしには自分たちの存在そのものが意味を喪失してしまう何かだと言っても良い。
今回は「文書」の話をする。
たいして関心を持たれているようにも見えないこの話題を、あえて持ち出してきた理由は、文書がないがしろにされていることへの世間一般の受けとめ方が、あまりにものんびりしているように見えて、そのことが、言葉にかかわる稼業にたずさわっている人間として残念に思えたからだ。
ちなみに、私自身は、行政文書が軽視されていることは、官僚が自分たちの仕事への情熱を失っていることのあらわれなのだというふうに受けとめている。でもって、官僚が為すべき義務を果たしていないことは、行政が機能していないということであり、行政が滞っているということは、国政が狂っていることだとも考えている。
大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、私自身は、事態を過大に申告しているつもりはない。
私は、この国は、狂いはじめる過程にあると、半ば本気で、そう思っている。
もっとも、国が狂っているってなことを言い張る人間があらわれた場合、一般的に言って、当該の国家なり国民が狂っている可能性よりも、その旨を言い立てている人間のアタマが狂っている可能性を先に考慮した方が良い。してみると、狂っているのは私の方なのかもしれない。うむ。その可能性は認めなければならない。
防衛省で、陸上自衛隊のイラク派遣時の日報が「発見」された。
「発見」は、普通は古文書や歴史的文書に使われる名詞で、リアルな行政文書や記録に対して使用される単語ではない。
が、4月3日の日経新聞の朝刊は
《防衛省、「不存在」の日報発見》
という見出しを打っている(こちら)。
「おい、発見って、防衛省は古墳か何かなのか?」
「まあ、庁舎の地下に秘密のダンジョンがあってもオレは驚かない」
「どうせ天の岩戸ぐらいな名前つけて自衛隊OBの軍事オタクがコレクションを秘蔵してる程度だと思うけど」
「あとはイシバさんのコスプレ衣装をおさめたワードローブな」
「そこに日報やら交換日記やらを隠蔽してたってわけか?」
「まあ、ガチムチの組織だけにそれぐらいの秘密の花園は許してやろうぜ」
もちろんだが、日報は地下迷宮の壺の中から発見されたわけではない。
ごく当たり前な保管場所から出てきたのだと思う。
ただ、なぜなのか、誰も気づかずにスルーされていたということなのだろう。
ともあれ、「『不存在』の日報」という、日経の見出しにある表現は、なかなか皮肉の効いた言い方だ。
ほとんど哲学的ですらある。
が、この見出しを考案したデスクは、おそらく皮肉を言いたかったのではない。単純に「これまで国会答弁などを通じて公式に存在しないとされていた日報が、その不存在を語った国会答弁から1年以上の年月を経たいまになって突然現れた」という、このたびの経緯を短い言葉で伝えるために、「不存在の日報」なる禅問答じみた用語法を採用せざるを得なかったのだと思う。
してみると、2004年~06年に書かれてから10年以上、不存在があらためて公式認定されてから数えても1年と2カ月ほど日の目を見ずにいた日報がわれわれの前に登場したなりゆきは、やはり「発見」という言葉を持ってこないと表現することができない。
あらためて考えるに、1万4000ページに及ぶ公文書が「発見」されるに至った経緯は、考えるだに異様だ。われらのような凡人の想像を絶している。
というのも、「発見」されるためには、「発見」に先立って、その公文書を誰かが「紛失」していないと説明がつかないからだ。
とすると、1万4000ページに及ぶ公文書のヤマを、いったい誰がどうやって「紛失」できたものなのだろうか。
仮に、なんとか周囲に気づかれることなく無事に紛失しおおせたのだとして、調査を命じられた人々は、その1万4000ページの日報のカタマリをどうやってこんなにも長い間見つけずにいることができたであろうか。
私にはどうしてもうまい説明を思いつくことができない。
とすれば、事ここに至った以上、そもそも「紛失」していたという説明がウソで、「発見」というのもウソの上塗りだったという可能性を考慮せねばならない。つまり、当初の段階で、存在していた日報を「ない」と言い張る「隠蔽」ないしは「虚偽答弁」がおこなわれていたということだ。そう考えた方が、その先の説明についてもずっと理解しやすくなる。
では、どうしてあるはずの日報を「ない」と答弁せねばならなかったのだろうか。
この謎を解くためには、今回「発見」されたイラク派遣の日報の話以前に、同じく自衛隊の南スーダン派遣(2012年1月~17年5月)の際の日報について、よく似たいきさつがあったことを知っておく必要がある。
2016年の12月、防衛省は、陸上自衛隊の部隊がまとめた日報の情報公開請求に対し、廃棄して存在しないことを理由に不開示とした。だが、同じ月のうちに別組織の統合幕僚監部に保管されていた事実が判明、2017年の2月になって開示した。
で、ここから先、国会答弁や報道とのやりとりが色々とあったわけなのだが、最終的には、日報についての説明が二転三転したことの責任を取る形で、7月には、このとき防衛相だった稲田朋美氏が辞任する。この間の事情は、以下のリンク先の記事に詳しい(こちら)。
もう半年以上前に書かれたものだが、今回の「発見」に先立つ事態の背景がよく説明されていると思う。
ともあれ、自衛隊としては、南スーダン派遣の際の日報を「廃棄した」と説明した時点で、PKO南スーダン派遣から遡ること10年前の、2004年から06年の記録であるイラク派遣の日報が残っていてはマズいことになるわけで、ということはつまり、イラク派遣の日報隠蔽の動機は、南スーダン時の日報の廃棄という国会答弁から事後的に発生したことになる。
誰かの国会での答弁を受けて、事後的に隠蔽なり改竄なり口裏合わせの必要が生じるというこの展開は、民主主義国家の行政の過程としては極めて異常ななりゆきではあるが、縁故主義(ネポティズム)と、人治主義が猛威をふるう前近代的な独裁国家ではさしてめずらしいことではない。というよりも、独裁的なリーダーが官僚の人事を壟断している世界では、あらゆる行政的な決定事項は、ボスの鼻息をうかがう形で決裁される。少しも不思議なできごとではない。
稲田朋美元防衛相は、今回の事態を受けて
「驚きとともに、怒りを禁じ得ない」
と述べ、あわせて
「上がってきた報告を信じて国会で答弁してきたが、一体なにを信じて答弁していいのか。こんなでたらめなことがあってよいのか」
とコメントしている(こちら)。
なんという見事な被害者ポジションによる受け身のとり方であろうか。
あるいは、稲田氏がコメントしている通り、彼女は、日報の存在をまったく知らされていなかったのかもしれないし、隠蔽工作や調査の実際についてもきちんとした報告を受けていなかったのかもしれない。
でも、だとしたら、それは自衛隊という実力組織がその上司である防衛大臣の指揮を裏切って行動していたことを意味するわけで、ご自身の大臣としての無能さを裏書きする出来事でもあれば、政権内でシビリアンコントロール(文民統制)が失われていることを示唆する危険な兆候でもある。
とすれば、現今の状況への感想を求められて「驚き」だとか「怒り」だとかいった、電車の中で足を踏まれたおばさんみたいなコメントを漏らしていること自体不見識なわけで、本来なら、自身の「監督不行届」と「力不足」を「痛感」して「痛哭」くらいはしてみせてくれないと計算が合わない。
まして
「こんなでたらめなことがあってよいのか」
は、到底、責任者だった大臣が言って良いセリフではない。
なぜなら、当時の指揮官である防衛大臣は、被害者でもなければ傍観者でもなく、言葉の正しい意味でかかる事態を招いた当事者であり責任者であり、より強い言葉をもって報いるなら、張本人でもあれば犯人ですらあるからだ。
どうせ言うなら
「こんなでたらめが進行していたことを知らなかった自分の無能さにめまいをおぼえています」
ぐらいは言わないといけない。
一連の事件には、いまだ不透明な部分が数多く残されている。
今後、真相が明らかになるにしても、その頃には、問題自体が忘れられていることだろう。
もっとも、大切なのは、今回の日報についてのピンポイントの真相そのものではない。
私たちが考えなければならないのは、こんなにも大量の文書が、あらゆる場面で、廃棄され、隠蔽され、改竄され続けていることの理由についてだ。
官僚は、本来、文書にウソを書くことができない人たちだ。
当然、書いた文書を捨てることもできないはずの人たちでもある。
少なくとも私はそう思っている。
逆に言えば、文書にウソを書いた時点で、官僚は官僚としての生命を終えなければならない。
そんなことを命じることができる人間がいるのだとすれば、それは官僚ではない。
官僚に死を求めることができるのは、政治家以外にいない。
10年ほど前の流行語であった「政治主導」の目指したところは、省益や前例踏襲にとらわれがちな視野の狭い官僚の発想とは別の、より大局的な政治家の立案で行政を動かすというお話だった。それはまた、行政のリーダーシップを試験に通った人間(官僚)の手から選挙で選ばれた人間(政治家)の手に委譲することで、より国民の意思に近い政治を実現するストーリーでもあった。
が、政治の覇権争いが人治主義と縁故主義に傾き、選ばれてくる議員が世襲の三代目だらけである現状において、政治主導の理想は急速に色あせている。
それにしても、財務省をはじめとして、厚労省、防衛省、文科省の官僚たちはどうして自分たちの仕事を冒涜しにかかるみたいな暴挙に走ったのであろうか。
ふつうに考えれば、心あるパティシエがケーキの味見をするためにクリームに指を突っ込まないのと同じように、マトモな官僚は行政文書を捨てたりなくしたり改竄したりはしないものだ。
なのに、なぜなのか、この何年かの間に、見渡す限りのお役所で、本来なら優秀なはずのお役人が、一斉に自分たちの仕事に泥を塗りはじめている。
これは、大きな謎だ。
官僚の職業モラルがある日突然地に落ちたからこんなことが起こっていると考えることも不可能ではない。
ただ、私はそうは思っていない。
昨今の行政官僚の頽廃は、1人ひとりの官僚の不心得に起因する帰結ではなくて、官僚が官僚であるための基礎的な条件のうちの何かが毀損されたことによって生じている一時的な現象なのだと、私は推測している。
文書が隠蔽され、不当に廃棄され、改竄されているのは、なるほど、官僚のモラルが崩壊しつつあることの現れなのかもしれない。
しかし、だとすれば、ここへ来て廃棄されたはずの文書が発見され、隠蔽されていた文書が再登場し、改竄されていたはずの文書の改竄前の原本が出てくるケースが続発しているのは、あるいは、官僚がモラルを回復しつつあるからこそ起こっている事態であるのかもしれない。
個人的には、今後、より重大な文書が「発見」されることを期待している。
みなさん、がんばってください。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
「始まってますよ、とっくに。気付くのが遅すぎた。柘植がこの国へ帰ってくる前、いやそのはるか以前から戦争は始まっていたんだ」
……今回の話が、映画館で見た悪夢につながりませんように(よろしければ
こちら)。
小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ます。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。
なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
なぜ人は、何かに依存するのか?
『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』
<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて
日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!
(本の紹介はこちらから)
この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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