もちろん、これは、後知恵で気づいたことで、閣議決定が発表された時点では、

 「なんとまあ奇妙なことを言い出したものだ」

 ぐらいにしか思っていなかった。

 それが、冷静に評価するだけの時間を経過したいまの時点から振り返ってみれば、現在、森友学園についての報道が、こんなふうにヒステリックな色彩を帯びているのは、あの時の閣議決定の強弁が招いた結果であるということに思い至るのである。

 「首相夫人は私人である」

 という閣議決定は、意地になった安倍さんの感情の亢進を感じさせる閣議決定だった。
 というよりも、閣議決定として通用させるにはあまりにも無理筋な「強弁」に見えた。

 首相夫人は、「公人」であるとか「私人」であるとかいった形で、きっぱりと一方の側に定義できる立場の人間ではない。

 普通に考えれば、誰にだってわかることだ。
 場面によっては公人だし、そうでない時は私人だろう、と、そう考えれば良いだけの話だ。

 公費で雇われた首相夫人付きの公務員を伴って、公的な肩書を名乗って公務に随伴する仕事に従事する時は、当然「公人」と見なされるだろうし、プライベートの時間に買い物をしていたり、私的な友人とお茶を飲んでいる時は、「私人」としてふるまっているという、それ以上でも以下でもないではないか。

 政治家にしても同じことだ。
 公人としてふるまう時もあれば、私人としてくつろいでいる瞬間もある。

 ちなみに言えば、この議論は、ずっと昔から何度も繰り返されてきた定番の水掛け論でもある。
 よく蒸し返される話題としては、靖国神社に政治家が参拝する際に、私人として参拝したのか、公人として参拝したのかが、ずっと争われてきた。

 その際、どんな肩書で記帳したのかが話題になり、玉串料を私費から出費したのか公費から出したのかが問われたりした。

 この議論の前提になっていたのは、政治家のようなおおむね公人として分類されている人間であっても、その構えや立場や取り組み方や状況次第で、「公人」と見なされる場合もあれば「私人」と見なされる場合もあって、一概にその肩書だけでその人間の機能や内実を判断することはできない、ということだった。

 だからこそ、「公人」か「私人」か、という議論は、その都度、ケースバイケースで、場面ごとに、シチュエーションを限定した上で議論されてきたのである。

 今回の安倍昭恵さんのケースでも、彼女が、どの場面で「公人」であり、どんな時に「私人」であるのかは、その時々の、安倍昭恵さん自身のその場への関与の仕方や、周囲の人々との関係や、出費されている金銭の出どころや、関わっている時に名乗った名前や肩書によって、それぞれに違ってくるはずで、どっちにしても、首相夫人が「あらゆる場面で公人」であったり「すべての機会において私人」であるといったような主旨の主張は、いくらなんでもあまりにもスジが悪すぎて、本来なら、大人同士が話をする場所には、持ち込むことさえ許されない話なのである。

 その意味で、首相夫人を「私人」とする閣議決定は、議論の前提のちゃぶ台をいきなりひっくり返すお話で、到底公的なチャンネルから出てきたお話とは思えない。

 安倍昭恵さんが、森友学園を訪れて講演した時に「公人」であったのか「私人」であったのか、というピンポイントの議論をするなら、そこには、当然のことながら、議論の余地がある。