連日メディアを騒がせている森友学園関連のニュースに、果たして、どんなスタンスで向き合ったら良いのかについて、この10日間ほど、あれこれ考えていたのだが、いまだに結論が出ない。

 たぶん、うまい答えは見つからないのだと思っている。
 とりあえず、今回は、この事件がどうしてこんなに騒がれているのかについて考えてみることにする。

 森友事件については、当初から

 「あからさまな人格攻撃じゃないか」
 「とてもじゃないがマトモな政治報道とは思えない。ただのスキャンダリズムだ」
 「登場人物のキャラが立っているから、テレビ用の画面(え)になりやすいというだけのことで、ニュースとしてはベタ記事レベルのネタに過ぎない」
 「こんな事件を掘り下げるより、もっと人員と予算を割り当てるべき取材先はほかにいくらでもあるんじゃないのか?」
 「北朝鮮が大変なことになっているのに、こんなことに時間を費やすなど正気の沙汰ではない」
 「国会議員にしても、こんな水掛け論にアタマを使うのではなくて、まっとうな政策論争をたたかわせるために選ばれたはずの人間で、だからこそ選良という言葉があったと思うわけだが、オレのこの見方は間違ってるか?」

 といった感じのツッコミの声が、各方面から多数寄せられていた。
 いちいちごもっともだと思う。

 たしかに、この事件についての報道は、はじめから、インパクトありきの、扇情的な画面構成がリードするテの、いかにもワイドショー好みな、曲馬団見世物小屋ライクな、どうにも品の無い、客引きのオヤジのダミ声が聞こえてきそうな劇場型スタジオライブバラエティとして視聴者に供給されていた。

 その意味では、森友関連報道は、第一に下世話だし、第二にスキャンダリズム横溢だし、以下順に、興味本位だし、扇情的でもあれば、覗き趣味でもあって、総体として、テレビの報道の悪いところをすべて集約したニュースであると決めつけて差し支えのない、稀代のゲテモノだった。

 ただ、私自身は、このニュースを伝えるメディアの伝え方に品が無いのはその通りなのだとして、だからといって伝えることそのものに意味が無いとは思っていない。

 むしろ、このニュースの真骨頂は、その下世話さに宿っているのではなかろうかと思っている。
 理由は、以下順次説明する。

 思うに、このニュースの伝えられ方が下世話なのは、ニュース番組を制作している記者やディレクターが品性下品であったり、視聴者が悪趣味であるからというよりは、テレビカメラの向こう側で起こっていること自体が、どうにもこうにも俗悪であることの反映なのであって、とすれば、ありのままを映すというテレビの文法からして、俗悪で陋劣で野卑で下劣な出来事は、やはり真正直に、下品かつ下衆かつ低俗な手法で伝えるほかにどうしようもないはずなのだ。

 上品ぶっていれば済むというお話ではない。
 きれいなカメラで撮ればゴミの山がイケてるイメージ映像に化けるわけではないし、高級な皿に載せることで腐った刺身がよみがえるものでもない。

 やはり、汚いものは汚い言葉で伝えなければならない。
 その意味で、森友報道は、おおむね適切な伝えられ方で伝えられている。

 ついでに言えば、このような下世話なニュースに視聴者の関心が集まっているのは、現在の政局を動かしているものが、真摯な政策論争や高尚な文化的議論ではなくて、えげつなくもいやらしい権力闘争やいじましくもみみっちい揚げ足取りの応酬であることを視聴者があらかじめ知っているからで、だからこそ、森友学園をめぐる一連の出来事の行間にあらわれている了見の狭さやケツメドの小ささに、私たちは、人が人を小突き回す営為たる政治のリアルを感じ取らずにおれないのであり、また、この胸が悪くなるような俗悪なコンテンツを直視し続けることの先にしか、自分たちの置かれている現実を把握する方法が無いことを、直感として理解しているわれら視聴者は、どうしてどうしてなかなかその視聴者を視聴している腐れインテリが思っているよりはずっと賢いのである。

 いまから半月ほど前の、事件を伝えるメディアの声のトーンがまだそれほどカン高くなる前の3月14日の時点で、政府は民進党からの質問主意書に答えて「首相夫人は公人ではなく私人である」とする答弁書を閣議決定している。

 私は、この時の閣議決定が、この後のニュースの伝えられ方に大きな影響を与えたのだと考えている。