ツイッターのタイムラインを眺めていて印象深かったのは、佐川氏の受け答えへの評価が、きっぱりと両極端に分かれていたことだ。

 この事実は、対話の内容そのものにはほとんどまったく意味がなかったあの日の国会での対話を、視聴者の側が、それぞれ、自分の予断に沿って「解釈」していたことを示唆している。

 政権のやり方に反対している立場の人々は、あの日のやりとりから、佐川氏が何かを隠そうとしていること、政権側が特定のシナリオに沿って事実の隠蔽ないしは歪曲をはかろうとしていること、そして彼らが隠そうとしている事実の背後には総理夫妻の「関与」と、その記録を組織的に改竄するための「陰謀」が立ちはだかっているはずだという「印象」を得て、自分たちがずっと以前から抱いていた予断への確信をいよいよ深めつつある。

 その彼らの反対側には、まったく逆の受けとめ方をしている人たちがいる。政権を支持する立場の人々は、野党側による揚げ足取りが結局のところ徒労に終わりつつあることは誰の目にも明らかだと考えている。彼らは、アベノセイダーズが瑣末な矛盾点を針小棒大にあげつらい、さも世紀の大疑獄であるかのように印象付けようとしているパヨク芝居の滑稽さは、いよいよ疾病の領域に突入してきたなといった感じの認識を共有していたりする。

 両派とも、あの不毛かつ不快なグダグダのやりとりから、自分たちがあらかじめ抱いていた見方の正しさを証明する印象を読み取っていたことになる。結局、あの種の抽象的な言葉の行ったり来たりは、受け手の側の耳の傾けようでどんなふうにでも聞こえるということだ。

 そんなわけなので、当稿では、森友事件の「真相」を云々する議論には深入りしない。

 「真相」に関して自分なりの予断を抱いている人々は、その「真相」を容易には手離そうとしないはずだし、そもそも「事件」が存在しない以上「真相」なんてものははじめから存在するはずがないというふうに考えている人々は、何が出て来ようが、「真相」に目を向けようとはしないのであって、結局のところ、この議論の結末は、何年か後に、様々な利害関係が風化して、党派的な人々が死滅してからでないと落着しない気がしているからだ。

 ここでは、「事件」の「真相」とは切り離して、佐川宣寿氏のパフォーマンスを(もちろん、自分の予断による)印象ベースで評価してみるつもりでいる。彼の言葉の意味や内容の評価ではない。論理的な帰結の話をしたいのでもない。

 言葉の内容はゼロだった。この点ははっきりしている。そして、彼の言葉が無内容だった理由については、繰り返しになるが、政権不支持側の人々は、森友事件の当事者ならびに政権の中枢に連なる人間たちが事実を隠蔽せんとしていたからだと言い張っているし、政権支持側の人々は、佐川氏の答弁が無内容になったのは、そもそも野党側の質問自体が事実とは無縁な空疎な演説であったことの反映であるというふうに決めつけている。

 しかし私が問題にしようと考えているのは、あのどうにも無内容で薄っぺらな定型句の繰り返しが、聴き手であるわれわれにどんな印象をもたらしているのかという点だ。