というのも、文春一強体制が確立されて以来、彼らの横暴さには一段階拍車がかかったように見えるからだ。

 1つの現場に、たとえば3つのメディアが取材陣を送り込んでいれば、単純に考えて、3つの視点からの3本の別の記事が出来上がってくる。

 どの記事が下手くそで、どの記事が秀逸で、どの記事の見方が浅薄で、その記者の書いた記事が独善的であるのかは、彼なり彼女なりの記事だけでは簡単には判断できない。が、別の書き手による記事があれば、読者はそれらを読み比べることができるわけで、最低限、たった一人の記者の身勝手な臆断や、一社の編集部が商売がらみで押し込むパブ記事が世論をリードしたり時代を代表したりするみたいな無体な状況は発生しない。

 しかし、文春オンリーの独占取材で記事が配信される事案では、他の見方や、別の取材者の見解自体がそもそも存在しない。
 ということは、事件は、一から十まで文春のさじ加減次第ということになる。

 取材の正当性や記事の信憑性や、読者の反響を踏まえた誘導の方向も含めて、あらゆる要素を一雑誌の編集部が自在にコントロールできるのだとしたら、これはもう報道とは呼べない。

 文春一極体制の弊害の一番わかりやすい例として、ベッキー嬢のケースを挙げたい。

 あの事件は、前にも書いたが、あるテレビタレントとあるミュージシャンの不倫交際に過ぎない。
 不倫がけしからぬ不行跡であり、恥ずべき反社会的行為なのだとしても、その交際の不潔さを責める資格を持っているのは、当事者だけである旨についても、以前に書いた。

 ファンを裏切ったとか、子供たちの夢を壊したという言い方は、こうした場合の定型の言いがかりに過ぎない。

 むしろ、この出来事に関する一連の報道で、最も強く指弾されなければならないのは、個人の私的な通話であるLINEのやりとりを週刊誌の編集部にリークした人間の所業であり、それ以上に、関係者から提供を受けたとはいえ、個人の秘密の私信である通話記録を全国販売の商業誌の誌面に写真付きで暴露した編集部の人権感覚だ。

 こんなものが見逃されて良いはずがない。
 不倫は、恥ずべき失態ではあっても、それでもなお個人的な不始末に過ぎない。当事者の間で処理すれば良いことだ。それ以上に、不倫そのものに社会的な責任は発生しないし、個人の不倫を報じることに公共性があるわけでもない。

 一方、メディアによる私信の暴露は、個人の人権を根本的な次元で毀損する極めて重大な犯罪行為だ。いずれがより悪質であり、どちらの悪行がより強く裁かれるべきであるのかは、言うまでもない。