CGや3Dによる未来的な演出ではなくて、アナログのパネルと糊のついた紙という大道芸じみたおよそチープな道具立てが、21世紀の新機軸として通用している点が興味深いと言えば興味深い。われわれの国は、本気で退潮しつつあるのかもしれない。テレビの司会者がベリベリ紙をはがしながらしゃべり倒している姿を眺めながら、20世紀のテレビ少年であった私は、時に、気が遠くなるような気分に襲われる。

 つまり、この間に何が起こっていたのかというと、それまで、現場で取材した記者なりレポーターが、自ら出演して現場の様子や事件の概要を伝えていたワイドショーのフォーマットが、単に新聞を読み上げる形式に移行したということで、要するに、端的に言って、ワイドショーは、取材をしなくなったのである。

 さらに時間がたつと、そのワイドショーのネタ元であるスポーツ新聞が現場に記者を送らなくなる。
 現在、彼らは
「週刊文春の報道によれば」
 という接頭辞をつけて、他社の取材ネタに乗っかったカタチで記事を書くことをルーティンにしつつある。

 誰も取材に行かない。

 ネタ元の週刊誌の編集部に挨拶代わりの電話取材をして、あとは、有識者や著名人や○○に詳しい誰某さんだったりする人々のコメントをざっくりと集めて、それで一丁上がりの記事を書いて輪転機を回す。そうやってスポーツ新聞はこの10年、部数を落とし続けている。

 週刊誌も、文春、新潮を除けば、軒並み取材費と人員を大幅にカットした体制でページを作るようになっている。

 というのも、20年前に比べて、雑誌の編集部は、どこの編集部であれ、まず間違いなく大幅な部数減に見舞われているからだ。
 広告費もびっくりするほど下がっている。
 しかも、読者層の年齢がとんでもなく上昇している。

 どういうことなのかというと、いまどき、電車の中でスポーツ新聞や週刊誌を広げているのは、スマホ時代に乗り遅れた高齢者ばかりだということだ。
 新聞も同様だ。
 宅配の新聞はもとより、駅売りのスタンドで販売される比率の高いスポーツ新聞の部数減は、さらに悲惨だ。
 なので、取材に割く予算は、どこの編集部でも、一貫して目減りしている。

 独自の取材ができない状況がもたらす問題は、紙面から活気が消えることだけではない。
 取材をしないメディアは、無批判になる。私が抱いている感じでは、こっちの弊害の方が大きいかもしれない。