というよりも、「フェイクはフォニーの周辺に発生する」という原則に沿って述べるなら、テレビのニュースショーや情報ワイド番組の周辺に、フェイクな肩書を伴った人物が潜り込んだことは、そこで獲得できる仕事口が、ある程度誰にでもできる難易度の低い業務であるにもかからわらず、不相応に高い社会的評価と知名度をもたらすフォニーな仕事であったことを意味している。

 あるいは、経歴をそれらしく飾り立てるための能力と、ランダムに発生する事件にそれらしいコメントを添えてみせる能力は、そんなに遠いものではないということでもある。

 というのも、自分の専門分野と特段の関連もない日々の出来事に事寄せて、凡庸でこそないものの、独特過ぎることもない、最終的に無難なコメントをとっさのアドリブで供給し続けるために必要な資質は、経歴を詐称した状態で世間に対峙している病的な嘘つきが、自分の身辺の細部に散りばめられた大小のウソを、破綻させることなく運営していく中で培ってきた「場の空気を読む能力」とほとんど同じもので、つまるところ、ニュースへのコメントの大きな部分は、擬似的な大衆の反応をパイロットしてみせる感情の偽装みたいなものだからだ。

 いや、私は、ワイドショーのコメンテーターという職業が、詐欺師もどきのインチキ商売だと言っているのではない。
 全然違う。
 私は、優秀な詐欺師なら優秀なコメンテーターがつとまるはずだ、ということを申し上げているに過ぎない。

 似ているようでいて、この二つの意味するところはかなり違う。
 優秀な詐欺師は、優秀なコメンテーターとして通用する。
 が、優秀なコメンテーターだからといって、優秀な詐欺師になれるとは限らない。
 つまり、詐欺師の方が、より幅広い能力を要求される職業なのである。

 別の側面について言えば、コメンテーターに期待される資質の大きな部分はその誠実さに関連している。が、詐欺師の業務において、誠実さは、無能さと区別がつかない。

 私はコメンテーターを腐したいのではない。
 ただ、フォニーの周辺にはフェイクが発生するということをもう一度申し上げるのみだ。

 いやいや、どうせ適当なことを言うだけの仕事に、マジな肩書きもフェイクな肩書きもあるものか、と言いたいのではない。
 私がこの際強調しておきたいのは、コメンテーターがフェイクな肩書きを名乗ったのは、われわれ聴き手の側が、コメンテーターの言葉よりも、彼の肩書きを重視していたことの当然の帰結なのではなかろうかということだったりする。

 つまり、お互い様だということだ。

 もっとも、コメンテーターは、たぶんハタから見ているほど簡単な仕事ではない。
 彼らの仕事の大半は、無難なコメントを発信することに費やされているわけだが、すべてのコメントがあまりにも無難過ぎると、それはそれで商売にならない。

 時には、ビビッドな感情のきらめきや、スリリングな断言や、皮肉の効いたまぜっかえしや、アブないコメントを織り交ぜておかないと視聴者にナメられる。
 ストライクしか投げないピッチャーがいつしかつるべ打ちに遭う成り行きと同じだ。
 3球に1球はボール球を投げなければいけない。
 1シーズンにひとつやふたつはデッドボールも投げた方が良いのかもしれない。
 その方がピッチングに幅が出る。

 とはいえ、暴投はいけない。バッターのアタマに当てることも絶対に避けなければならない。
 とすると、ストライクゾーンの出し入れやら、変化球の切れ味やらを考えると、コメンテーターという商売も、これはこれで、なかなか精妙な技術を要する職人仕事なのかもしれない。

 問題は、コメンテーターの死命を決する能力である、ストライクゾーンを見極める目や、その日のアンパイヤの判定の傾向をいち早く感知するセンスにおいて卓抜な力を発揮するのが、フェイクな人たちだったりすることだ。