彼らは「言葉」を大切にしない。
 なにより、国会答弁をないがしろにしている。

 国会での質問に簡潔な言葉で答えないばかりか、官僚の用意した原稿をマトモに読むことさえしない。
 記者の問いかけにも真摯な言葉で応じようとない。
 くわえて、文書の扱いもおよそぞんざいだと申し上げねばならない。

 「無い」と説明した文書が、後になって出てくる例が続いているかと思えば、面会記録を1日ごとに廃棄していると言い張る。さらに、国会審議の基礎データには恣意的な数字を並べたデタラメの統計を持ち出して恥じない。

 いったいどういう神経なのだろうか。
 政治家にとっての言葉が、寿司職人にとっての寿司ネタに等しい生命線であることを、彼らは理解していないのだろうか。

 今年の秋に62歳になる私は、昭和の時代から数えて何十という内閣の治乱興亡を見てきわけだが、その老人の目から見て、これほどまでに言葉を軽視している政権は見たことがない。

 昭和の時代の自民党の政治家は、強欲だったり無神経だったり高圧的だったり下品だったりで私はほとんどまったく尊敬していなかったものだが、それでも、彼らは現政権の政治家よりはずっと言葉を大切にしていた。その点に限ってのみ言えば、彼らは見事だった。

 自ら「言語明瞭意味不明」と韜晦していた竹下登氏の一歩引いた位置からの論評(さる世襲の政治家を評して「あれは、竹馬に乗った人間だわな」と言った)はいつも秀逸だったし、大平正芳氏のもたもたしているようでいながら滋味横溢する言語運用と、田中角栄氏の卓抜な比喩は、そのまま見出しになるキャッチフレーズの宝庫として好一対だった。

 引き比べて、現職の閣僚の言葉の貧しさはどうだろう。
 私は、語っている政策や答弁の内容以前に、とにかく彼らの文体(というか口調)に耐えることができない。

 こんな日本語をこれ以上聞かされるのはごめんだ、と思ってテレビのスイッチを切ったことが何度もある。
 なんとも悲しい話ではないか。

 1年ちょっと前に、ツイッター上の知り合いの間で

AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?

 という記事が、話題になったことがある。

 詳しくはリンク先を読んでほしいのだが、要するに、AIの読解力を高めるために研究をしている学者さんが、そのための基礎データを集めるべく人間の子供たちの読解力を調査してみたところ、衝撃的に低い結果が出たというお話だ。