ラテン語を解するエリートだけが共有するアカデミアの結界と似ていなくもない世界が、霞が関文壇の周辺には広がっているわけで、あの練りに練られた悪文を自在に使いこなしている人々は、結局のところ自分たちにしかわからない日本語で何かを伝え合うことのできる、テレパシーにも似た一種の超能力の使い手でもあるのだ。

 私の知っているある自動車オタクは、視界の隅を0.5秒で過ぎ去って行く対向車線のクルマの車種と年式をあやまたずに言い当てる識別能力を持っているのだが、その彼の師匠筋に当たるご老人は背後から追い越しにきているクルマの排気量と気筒数とエンジン型式を排気音のみで聴き分けることができるのだそうだ。

 どこまでがホラ話なのかはわからない。が、ことほどさように、時間をかけた没頭と献身は人を神に似た存在に作り変えてしまう。

 であるからして、練達の霞が関文学読解者は、決裁文書の行間に畳み込まれた一見無意味無味無臭の情報から、書き手の失意や無念やあるいは遺言のような言葉すらも読み取ることができるはずなのだ。

 たとえば、同じマニア雑誌を長年購読している読者は、その雑誌内だけで通じるジャーゴンやしきたりについての、著しく偏った、かつ高度な読解力を身につけることになる。

 私自身、洋楽にカブれて内外の音楽雑誌を濫読していた時期には、自分で言うのもナンだが、異様な読解力を持っていた。

 ひいきの評論家が、一見、ごく普通の言葉で賞賛しているレコード評が、実は明らかな酷評であることなどは、最初の10行を読めば感知できた。

 「○○さんが《小粋な》という言葉を使うのは録音が大っ嫌いな時だからなあ」
 「××先生がいきなりコード進行の話をしてるってことは、音楽的に退屈だという意味だよ」

 と、もののわかった読者は、ささいな言葉の違和感や常套句の運用法を手がかりに、書き手の真意を読み取ることができる。

 もっとも、私は、読解力こそ身につけてはいたものの、音楽雑誌で4年近く連載コラムを執筆していながら、ついに業界標準の褒め殺しの技巧を身につけるには至らなかった。腕の立つレビュアーは、固定読者に向けて「こんなイモ盤買うなよ」というメッセージを伝えつつ、業界向けには無難な賞賛記事として通用するレコード評を自在に書くことができる。まったくうらやましい限りだ。

 読解力は、特別な能力ではない。
 一定量以上の文章を読みこなせば、誰にでも身につく能力だ。
 逆に言えば、文章を読まない人間が、読解力を磨くことは不可能に近い。

 私が残念に思っているのは、現政権が、リーダーである首相をはじめとして、もっぱら、読解力の乏しいメンバーで構成されているように見える点だ(なお、断っておくが、これで「オダジマは野党の政治家の方がマシだと言いたいんだな」と思う方は読解力が足りない)。