誤解を恐れずに言えば、このたびの文書改ざんは、最初に書かれた文書が異様だったことと無縁ではない。つまり、原本の文書がひと目見て「異様」であったからこそ、財務省の人間はそれを書き換えずにおれなかった、ということだ。

 誤解してもらっては困るのだが、私は「異様」な文章を「正常」な文書に書き換えた財務官僚の行為が正しかったことを立証したくてこんな話をしているのではない。

 改ざんは、言語道断の暴挙だ。

 ただ、それはそれとして、私がぜひお伝えしたいのは、最初の段階で決裁文書を作成した現場の役人が、その「異様」な文書を通じて訴えようとしたことを正しく読み取らないと、この話の背景にある謎の解明は先に進まないのではなかろうかということだ。

 もっとも、現段階で、私がその問いに対する答えを持っているわけではない。
 だから、ここでは、文体と読解力についての思わせぶりな話を書く。
 どっちにしても、答えは書かない。
 私は、「みんなで考えてみよう」というずるい提案を残して、この場を立ち去るつもりでいる。

 官僚の作文は評判がよくない。

 いわゆる「霞が関文学」は、学校でもカルチャーセンターでも常に悪文の典型として非難の的になっている。

 というのも、現代において模範とされるテキストは、表現のブレの少ない簡潔な文章だからで、その視点から評価すると、官僚がやりとりしている文章は瑣末な装飾ばかりが過剰で、骨子の伝わるところの少ない、極めて非生産的な言語運用法であるからだ。 

 彼らの文章は、

  • 断定しない語尾
  • 言質を取らせない語法
  • 含みを持たせた主語
  • 焦点をボカす接尾辞
  • 多義的な接頭辞

 といったいずれ劣らぬ曖昧模糊とした要素から構成される、修辞上のレゴブロック作品のごときもので、読み取る側の読み方次第でどうにでも読めてしまえる半面、ほとんどまったく具体的な事実を伝えていない点で、われら一般世界の人間の生活には寄与しない。
 しかしながら、役人が役人として働いている場所では、カドを立てることなく陳情者の要求をかわしたり、確約せずに許認可の利権をチラつかせたり、責任をとらない形式でやんわりと指示を出すような場面で、大いに使い勝手の良いツールだったりもしている。

 それだけではない。
 霞が関文体で書かれたメッセージは、木で鼻をくくったような行政文書としての機能とは別に、高い読解力を備えたメンバーの間でだけ通用する符丁としてもっぱら行間を読み合う形式で流通している。