つまり、私が上記で7年前の会合の際のエピソードとして紹介したお話は、かつて三無主義世代と呼ばれた「目立たない、歯ごたえのない、数の少ない」世代の男たちが30年後に集まって、若い世代の論争耐性の低さを嘆いている場面の会話だったわけで、そう考えてみると、この間の時代の変化の大きさは、相当にとてつもないものなのである。

 現在もTBS系で放送されている「ニュース23」が、筑紫哲也氏のMCでまわされていた時代、あの番組には、「異論!反論!OBJECTION」という視聴者による街頭録音の声を紹介するコーナーがあった。

 私がこんなトリビアな話を蒸し返しているのは、「異論!反論!OBJECTION」がレギュラーの企画コーナーとして放送されていた当時は、「異論」を述べ、「反論」をぶつけ合い、「objection(異議申し立て)」を活発化することが、意義のあることだとする社会的な合意のようなものがわれわれの中に存在していたということをお知らせしたかったからだ。

 団塊の世代の人々ほどではなくても、20世紀の平均的な市民であった私たちは、人々が議論を戦わせ、互いの意見をぶつけ合う過程をおおむね歓迎していた。そうやって対立を経た先にあるはずの、実りある合意を目指すことが、民主主義を前進させるための不可欠な過程であるということを、少なくとも建前の上では、共有していたのである。

 ところが、どういう仔細でこんなことになったのかは知らないが、21世紀の平均的な日本人は、異論や反論やオブジェクションを、どうやら品の無いマナーとして忌避している。

 最近では、自分自身が論争や争い事を避けるのみならず、他人が争っている姿を見せられることすら拒絶しようとする態度が一般化しつつあるように見える。

 この感じは、前世紀までは喫煙者との同席を拒むといったあたりで折り合いをつけていた嫌煙の風潮が、今世紀に入って以降、路上を含めて視認できる範囲内でのすべての喫煙行為を排除する運動にエスカレートしている姿に、なんとなく似ている。

 ニュース23のキャスターであった筑紫哲也氏は、2002年日韓W杯当時の日本代表サッカーチームの監督であったフィリップ・トルシエ氏を番組に招いた折、

 「あなたはジョークを言いませんね」

 と言ったことがある。
 この言葉に、私は驚愕した。

 私の見たところ、トルシエは、場違いなジョークの第一人者だったからだ。

 というよりも、私にとって、フィリップ・トルシエは、ジョークにとって最も大切な要素が「違和感」であることを教えてくれた最初の人物だった。

 面白いか面白くないかは、たいした問題ではない。
 というよりも、ジョークの出来不出来は、ジョークの聴き手である世間が勝手に判断すれば良いことだ。

 しかし、場違いな要素を含まないジョークは、いけない。

 なぜなら、ジョークとは、場を破壊する意思であり、人々の間にあるコミュニケーションの約束事を一旦無効化することで更新する、一種の破壊工作だからだ。

 「時には赤信号を渡らなければならない」

 というトルシエによる有名な提言は、実にそのことを示唆している。
 われわれは、時に先方の予断を裏切って、奇天烈な言動に走らなければならない。