言葉を変えていえば、一丸となって練習に励む部員たちの滅私奉公の集団性をあらまほしき自己鍛錬として賛美する部活魂の教条を、そのままグローバル社畜の労働観として結実せしめたのが現代日本の人材育成プロセスだったわけで、決して自己都合の有給休暇を申請しないばかりか日々のサービス残業を自らの喜びとして消化する夜勤人形は、実は部活アルゴリズムによる鍛造作品だったのである。

 1年に3日しか休まない甲子園出場チームの部活練習は、ダルビッシュがいつだったか自身のブログの中でものの見事に否定し去っていた通り、競技力の向上に寄与しないばかりか、一番大切な高校球児たちの選手生命を脅かす深刻な脅威でもある。

 その点で、休まない部活には、ほとんどまったく擁護の余地がない。

 ただ、世間の人間が部活に期待しているのは、必ずしも部員をアスリートとして成長させる過程や、チームを強化する機能ではない。

 だから、ダルビッシュをはじめとするスポーツの世界の専門家の言う部活批判は、部活の価値のうちの半分しか否定したことになっていないし、事実、休まない部活の素晴らしさを信奉している人々の心にはまったく届いていない。

 「わかってるよ」
 「うん。適切に休養をとった方が成果があがるとかいうお話は、20年前から通算で3000回ぐらい聞いてる」
 「理屈じゃないんだよ」
 「勤行だよ勤行」
 「レギュラーなおもて罰走をとぐ、いわんや補欠をや、だよ」

 部活に期待されているものの中身は、実に多様で、しかも当然のことながら理屈では説明できない。

 精力善用。高校生にグレるいとまを与えない練習スケジュール。勝っても勝たなくてもとにかく一日中練習することの尊さを教えること。勝利と同じほどに尊い敗北の価値を知ること。先輩後輩のケジメを学ぶこと。協調性。克己心。チームスピリッツ。パシリ耐性。理不尽に耐える根性。

 特に最後の「理不尽に耐える根性」は強烈だ。
 この教条がある限り部活は不滅だ。

 というのも、外部の人間が部活の理不尽さを指摘すればするだけ、部活の価値が上昇することになるからだ。

 ともあれ、理不尽の温床であることが部活の価値の源泉であり、様々な理不尽の中で練習することが自分たちの人間性を高めている、と少なくとも部活の内部にいる彼らはそう考えている。

 とすると、彼らの練習は、滝に打たれている修験者の修行とそんなに変わらないわけで、ということはつまり、滝の水が放出する位置エネルギーの浪費を責めても仕方がないのと同じ理路において、部活の理不尽を指摘しても意味がないのである。

 「部活の決まりごととか練習メニューとか序列とかって、理不尽なことだらけですよね」
 「だからこそ、理不尽に耐える心が養われるんじゃないか」

 という、この種のやりとりに絶望した経験を持つ人は、少なくないはずだ。
 理不尽を指摘すると、指摘された側の人間が

 「理不尽だからこそ価値があるんだ」

 と答えるこの融通無碍な構造の不死身さが、うちの国の組織の本質なのかもしれない。