「部活が、オレを作った」

 と彼らは考えている。

 「部活のキツい練習を乗り越えたあの時代の汗と涙が、いまの自分を支えている」
 「オレは、教室で学ばなかったさまざまな人生の真実を部活の泥の中で学んだ」
 「理屈じゃないんだ」

 という形式で、彼らはものを考えている。
 で、実際のところ

 「理屈じゃないんだ」

 と考えている彼らは、理屈では自らが勝てないことを知っている人たちであったりもする。

 とはいえ、理屈では勝つことができず、言葉ではうまく説明できないからこそ、その分だけ、部活への思いは、彼らの中に深く根を張っている。

 「理屈じゃないんだ」

 と考える彼らは、ネット上で燃え上がっている論争に、あえて積極的に関わろうとはしない。

 だから、彼らの気分を代弁した記事は、表面上は、ボロ負けの形で論破されている。
 しかし、彼らが敗北を認めているのかというと、おそらくそんなことはない。
 彼らは黙っているだけだ。

 「理屈屋の連中が理屈で勝つのは当然の展開で、だから、オレたちの立場は理屈の上ではきれいに否定されているわけだな」
 「でも、理屈じゃないんだ」

 と、彼らは考えている。
 現実に、世界は理屈で動いているわけではない。

 先輩との付き合い方、後輩の扱い方、忍耐と要領、リーダーシップとフォロワーシップ、命令と服従、友情と割り切り、圧力のかわしかた、団結と自己犠牲、勝利への執念、グッドルーザーとしての振る舞い方、あきらめない心とあきらめた仲間への思いやり、あきらめてしまった自分へのアフターケアとあきらめていないふりをすることの大切さなどなど、部活という特殊な閉鎖環境で学んだことが、自分をマトモな社会人にしてくれた、と、彼らはそう考えて、自分を鍛えてくれた部活に感謝している。

 仮に、部活の練習にいくらか有害だったり不適切だったりする要素が含まれているのだとして、だからって、ほかならぬ自分がくぐりぬけてきた思春期の試練がまるごと無意味な徒労だったと決めつけられて、はいそうですかと自分の青春を否定できると思うか? 終業のベルが鳴ると同時に帰宅して予習復習に励んでいたタイプのいけ好かない高校生が、将来、有識者会議に招集されることが当然の展開なのだとして、すべての高校生があんたみたいな腐れインテリを目指すべきだというガイドラインはいくらなんでも行き過ぎじゃないのか?

 われわれの社会は、部活で養われた集団性と自己犠牲の精神を企業戦士に不可欠な資質として、高く評価し、利用してきた経緯の上に成り立っている。