以来、やれ体育会オヤジの独善だとか、部活至上主義者の横暴だとか、さんざんな言われようで現在に至っている。
 袋叩きと言って良い。
 なので、当欄では、重複を避ける意味でも、このうえ、記事についていちいちことあげて批判することは控える。

 むしろ、ここでは、日刊スポーツの記者氏の真意を汲み取って、「部活」という組織なり経験が、いかにわたくしども日本人にとってかけがえのない存在であるのかということについてあらためて考えてみたいと思っている。

 私自身、もともとは、この記事に寄せられた批判の多くに共感したからこそ、このテーマについて書くことにしたわけなのだが、あれこれ検討しているうちに、単に部活をやっつけるだけでは何かを見落とすことになるのではなかろうかと考えるに至った次第だ。

 というのも、日刊スポーツの記事が大筋において的外れなのはその通りなのだとして、そのこととは別に、記者が訴えんとしていた「部活のかけがえのなさ」の実体的な意味は、「学校」よりもっと大きな「社会」という枠組みの中で考えないと正確には伝わらない話だと思ったからだ。

 ネット上で、件の記事を思うさまにやっつけているのは、おおむね「非部活的な」論者だ。

 つまり、高校時代はどちらかといえば勉強のできた組の生徒で、部活練習で朝から晩まで泥にまみれているみたいな暮らし方とは無縁な学校時代を経て社会に出た人たちだということだ。

 こういう人々にとって、部活出身者は、なれなれしくて声がデカくて野卑で高圧的で徒党を組みがちな、なんというのか、日常的に交流したいとはどうにも思えない人たちであるわけで、だからこそ、彼らは、その権化みたいな日刊スポーツの記者氏の言い分を全力で否定しにかかったのだと思う。

 実際、記事の行間には、体育会系っぽさが横溢している。
 それゆえ、ネット内に蟠踞する反部活系の論客たちは、日刊スポーツの記事の内容以上に、その行間にある体育会系っぽい匂いに強烈な忌避感を抱いた。

 これは、だから、単に部活のありかたをめぐる論争というだけのできごとではない。
 昔から戦われてきた、わりと陰険な対立だと思う。

 ネット上ではケチョンケチョンに論破されたあげくにヒモで縛られた資源ゴミの新聞紙みたい扱われている例の日刊スポーツの記事にも、支持者がいないわけではない。

 それどころか、あの記事に共感を抱いている読者は、実のところ、日本人の多数派かもしれない。

 少なくとも私はそう思っている。
 特に、スポーツ新聞のコアな読者層や、自身がハードな部活を経験した中高年の多くは、あの記事に深い共感をおぼえたはずだ。