原発のお話を蒸し返さねばならない。
 またコメント欄が荒れるのだと思うと気が重い。

 しかしながら、この話題は、気が重いからこそ、定期的に振り返って、くどくどと蒸し返さなければならない。そして、みんなしてうんざりしつつ、一から同じ議論をたどりなおして、ますますうんざりせねばなならない、と、かように私は考えている。原子力発電所は、熱水を蒸し返すことでタービンを回している。私たちもそうせねばならない。

 理由を、以下に申し述べておく。
 わたくしども日本人は、もめごとが嫌いだ。

 正しいとか正しくないとか、良いとか悪いとか、論理的だとか感情的だとか、そういう真正面からの議論を展開する以前の段階で、われわれは、そもそも、異なった見解を持つ人間と対話を持つことそのものに気後れを感じるように育てられている。だから、ある臨界点を超えて論争的になってしまった問題に関しては、それについて自分がどういう考えを持っているのかとは別に、はじめからその問題に関与すること自体を避ける。

 原発は、そういうものになっている。
 懐かしい言葉で言えば「えんがちょ」というヤツだ。

 子供たちの間で、何か汚いものに接触してしまったメンバーは、その場で「えんがちょ」と認定される。

 と、その「えんがちょ」となった少年は、一定の期間が過ぎるまで、または仲間の子供たちがその期間限定の仲間はずれゲームに飽きて「えんがちょ」の呪縛を解くまでの間、一人の人間の形をした汚物として共同体から除外されることになる。

 うっかり犬の糞を踏むことの多い子供であった小中学生時代を通じて、私は「えんがちょ」な少年として過ごす時間を豊富に持っていた。だから、この件には、ちょっと詳しい。

 もっとも、昨今では「えんがちょ」を、遊びではなく「いじめ」の文脈で読み解く人々が多くなっていて、してみると、この「えんがちょ」という言葉は、無邪気に使うことのできない言葉に変貌しつつあるわけで、つまり、「えんがちょ」自体が、すでに「えんがちょ」に指定されているのかもしれない。実に厄介な状況だ。

 とにかく、子供たちにとって、「特定の誰かを仲間はずれにすること」が、「遊び」であるのか「いじめ」であるのかは、なかなか厄介な問題で、ほかの動作でも同じことなのだが、「遊び」と「いじめ」は、実際の子供たちの社会の中では、必ずしも相容れない対立概念ではなかったりする。

 子供たちの行動圏の中では、「いじめ」は「遊び」を含んでいるし、「遊び」は「いじめ」を含んでいる。このあたりの事情は、大人になっても、あんまり変わらないのかもしれない。私が指摘しておきたいのは、原発にかかわるあれやこれやが、昭和の子供たちの間でたびたび発動されていた「えんがちょ」とほとんど同じなりゆきで、通常のコミュニケーションから除外されてしまっているということだ。

 原発話題排除要請は、「強制」や「圧力」であるよりは、よりやんわりとした「マナー」として、共有されている。

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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。