たしかに、五箇条の御誓文は、最後の第五条のそのまた最後を除けば、基本的にはまっとうな内容の言葉を並べた条文だ、と言っても良いのかもしれない。

 教育勅語にしたところで、いくつか現代的でない内容を含んでいることはたしかだが、全体を通して通読すれば、必ずしも常識はずれの狂信を強要するテの文章ではない。

 もう一歩踏み込んでいえば、戦前の教育に、間違った点や不適切な内容が含まれていたのだとしても、そのすべてが間違っていたわけではないし、総論として狂っていたわけでもない。現代に通用する考え方だってたくさん含まれている。

 おそらく、戦前の教育を復活させようとしている人たちは、戦前の日本のすべてを「全否定」しようとする考え方や運動に反発して、自分たちの活動を立ち上げているのであろうし、そう考えているからこそ、わざわざ教育勅語を持ち出してきているのだと思う。「これのどこがおかしいのだ」と、主張したくなるのはもっともだ。

 ただ、問題は、そこのところではない。
 教育勅語や五箇条のご誓文の中に含まれている徳目や、人としての心構えの、ひとつひとつが、適切であるのか不適切であるのかを検討してみたところで、そんなことにたいした意味はない。

 私が不気味さを感じるのは、教育勅語そのものに対してではなくて、1つの幼稚園で学ぶすべての園児なり教室内のすべての生徒たちが、同じひとつの道徳律を共有すべきである、とする、その前提に対してだ。

 仮に、子供たちが毎日声を揃えて朗唱している教育勅語の中に含まれる徳目の8割が人としての望ましいあり方を示唆する理想的な言葉であるのだとしても、問題は、「全員が声を揃えて朗唱する」という、逸脱を許さないその集団至上主義の方にあるということだ。

 戦前の教育が、われわれを誤らせたのは、戦前の学校や、戦前の教師たちが、間違った徳目や、人としてありえない道徳を唱えていたからではない(前述の通り、言葉としては大筋間違っていないんだから)。

 彼らが道を誤ったのは「すべての子供たちが同じ一つの徳目を身につけるべきだ」という前提を、あまりにも強烈に適用したからで、だからこそ、われわれは後戻りのできない体制を作り上げてしまったのだ。

 別の言い方をするなら、「全体」と「個」、「公」と「私」、「秩序」と「自由」という2つの相互に対立する「正しさ」のうちの、片方だけを重要視する態度がバランスを欠いていたがために、戦前の社会は自ら瓦解した。本当のところを言えば、「全体」がいけないわけでもなければ、「個」が間違っているわけでもなく、「公」だけが正しいのでもなければ、「私」のみが尊いのでもなく、「秩序」のみが重視されるべきでもなければ、「自由」のみが声高に叫ばれるべきでもなくて、要は、常にバランスを考えなければいけないということなのである。

 その点で言うと、仮に五箇条の御誓文が、全体として穏当な主張であるのだとしても(私は必ずしもそう思っていないが)、それを幼稚園児に朗唱させることは、1人ひとりの子供たちが、それぞれの生まれもったバラつきに応じた適切な集団生活を享受する上で、不要な圧力を生じさせる意味でくだらない習慣だ、と考えなければならない。

 心を一つにする、という理想を掲げることを否定はしない。
 人間なら誰にでも必要な教育、というものももちろんある。
 だが、やりすぎてしまうと「全部が同じ」でないと気が済まなくなる。
 教育は真面目にやり過ぎずに、ほどほどのところでバランスを取るべきなのだ。だから難しい。