ただ、現代日本の普通の幼児の標準からすると、やはりあの演技はキモい。
 これは、私の好みに過ぎないと言ってしまえばそれだけの話なのだが、私は、子供の踊りは不揃いな方が可愛いと思っている。ついでに言えば、歌わずによそ見をしている子供を含まない子供の合唱は子供らしくないという意味で不完全だとも思っている。

 幼児の学習能力は、凡庸な大人の予断をはるかに超えたものだ。

 学齢前の幼児は、口伝えで根気よく教えれば、どんなに難解な文章であっても忠実に反復することができるようになる。ある程度反復を繰り返していれば、じきに暗記してしまう。

 だからこそ、無垢な幼児たちと共に過ごす時間を与えられた大人は、彼らをコントロールする欲望を抱くようになるものなのであろうし、人によっては、幼児という素材をもとに、完璧な人間を創造する夢を見るのだろう。

 訓練次第でどこまでも深く技能や動作を習得して行く存在である幼児は、包丁の扱い方次第で自在に形を変える調理素材や、画家の着想の舞台となる無地のキャンバス同様、指導する者にとって、無限の可能性そのものに見えるに違いない。

 しかし、それでも幼児は幼児だ。

 私がここで言っている「幼児」という言葉の意味は、「不定形な」「あやふやな」「気持ちの変わりやすい」「集中力を欠いた」「未完成の」「わがままな」といったほどの内容を総合したもので、要するに、「手に負えないもの」であり、気取った言い方をすれば「アンファン・テリブル」だということだ。

 その意味で、幼児に確固とした、定型的な、斉一的な、揺るぎのない、動作や思想やマナーや反応や反射を、教え込み、定着させ、叩き込み、確定させ、反復させる試みは、狂った態度だ、と申し上げなければならない。

 私個人は、その種の思い込みが大嫌いだし、右であれ左であれ考えの定まっていない未熟な人間に統一した思想体系を植え付けようとするすべての企てに反対する。

 ネット内で発言している人々の声に耳を傾けると、たとえば、教育勅語について、
 「基本的には良い内容だし、それを子供が暗唱することが問題だとは思わない」
 と言っている人々が少なくない。

 五箇条の御誓文については、さらに積極的に評価する人たちが多い。

 「『広く会議を興し万機公論に決すべし』のどこがいけないんだ? えらく民主的じゃないか」
 「『旧来の陋習を破り天地の行動に基づくべし』なんて、ラディカルじゃないか。進歩的だぞ」
 「『上下心を一にして盛んに経綸を行うべし』だって、団結と協調を訴えているだけのことで、ひとつも有害じゃない」
 「『官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す』も官僚の心得として当然の言葉だと思うが」
 「でもまあ最後の『智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし』だけは、主権在民の時代にそぐわないといえばそぐわないかな」