舛添要一前都知事について政治資金の流用や、公用車の使用に関する公私混同の疑惑が持ち上がった時、大小のメディアが、総力をあげて舛添さんの身辺を洗ったことを、私は忘れていない。

 舛添さんは、クルマの走行距離や、回転寿司店での飲食の詳細や、家族で宿泊した温泉旅館の支出にいたるまで、あらゆる私生活の詳細を暴き立てる形で、支出の透明性に関して説明を求められた。

 あの時の、雑誌、テレビ、新聞、ネットメディア総掛かりの魔女狩りじみた凄まじい取材ぶりと比べると、現状でのこの大阪市の国有地売却問題についてのマスコミの初動の遅さには、正直な話、物足りなさを感じる。ぜひ、ジャーナリスト諸氏の奮起を期待したい。

 事実関係については、記者の皆様におまかせするとして、ここでは、幼児に教育勅語や、そのほか大人を瞠目させる様々なスキルを教え込むことに熱中する大人の気持ちについて、考えてみたい。

 園児が「同期の桜」や「愛国行進曲」を歌う動画をはじめて見た時の気持ちは、ちょっと複雑だ。
 コワキモおかしいという言葉があれば、そういう気持ちだったと言えば良いのかもしれない。

 基本的には気味が悪いのだが、面白くもある。
 若干、可愛くもあればほほえましくもある。
 で、読後感としては、しみじみとコワい。そんな感じだ。

 子供は、大人を映す鏡だ。
 小さな子供たちが一糸乱れぬ動作を反復していることは、その子供たちが、相当程度の訓練を積んできたことを意味している。また、このことは同時に、子どもたちに圧力の高い訓練のプログラムを反復させることのできる強い力を持った大人が介在したことを物語っている。

 なんというのか、私は、塚本幼稚園の子供たちが、年齢にそぐわない難解な漢語の書き下し文を暗唱している姿を眺めながら、その練度を達成するに至る訓練の過酷さを逆算して、暗い気持ちになった次第なのである。

 もっとも、大阪の幼稚園の子供たちの演技も、その洗練度を単純に比較するなら、北朝鮮の式典で披露される北朝鮮の幼児たちのとてつもない斉一性には到底及ばない。

 救いがあるとすれば、そこのところだろう。
 幼児が演じるパフォーマンスの練度は、それに関わる大人たちの信奉の強烈さを反映することになっている。

 訓練に当たる大人の熱心さと確信が強烈であればあるだけ、子供たちの演技は研ぎ澄まされた水準に到達する。

 そう考えれば、塚本幼稚園の園児たちは、まだまだ北朝鮮の幼児の域には達していない。ということは、森友学園の関係者の熱心さも、北朝鮮の演技指導スタッフの命がけの献身ぶりに比べれば、ユルいものなのであろう。