にもかかわらず、彼は、ネットカフェ難民が、非正規で働くことや孤独であることも含めて、経済的に自立できずにいることや、一寸刻みに若さを喪失しながら四十の坂を上り詰め五十の坂を転げ落ちたりしていることのすべてを、「本人が自己責任で自ら選んだこと」として語ってしまっている。

 致命的にダメな分析だと思う。
 ただ、論点は、そこではない。
 私が当稿で訴えたいのも彼らの至らぬ点についてではない。
 問題は、こういう発言が受けているということだ。

 視聴者の多くが、これらの発言を問題視しないどころか、大筋において共感をもって受けとめているからこそ、番組は成り立っている。ということはつまり、私が非常識だと思ってくどくどと責め立てていた彼らの発言こそが、実は現代の日本の庶民の多数派が抱いているところの最大公約数の世論だったということで、とすると、非常識なのは私の方だったということになる。なんということだろう。

 おそらく、世間の少なからぬ層の人々は

 「ネットカフェ難民なんて甘ったれてるだけだからどんどん追い出してホームレスから再出発させればいいんだよ」
 「40代で夢追ってフリーターとかイタいっすよね」

 というそのままの感想を保持している。

 つい2日ほど前にも、さる上方の落語家がツイッター上に

《世界中が憧れるこの日本で「貧困問題」などを曰う方々は余程強欲か、世の中にウケたいだけ。
この国では、どうしたって生きていける。働けないなら生活保護もある。
我が貧困を政府のせいにしてる暇があるなら、どうかまともな一歩を踏み出して欲しい。この国での貧困は絶対的に「自分のせい」なのだ。》

(ツイートはこちら

 という書き込みをして話題になった。

 この発言について、

「落語家というのは、貧困者や慮外者に寄り添う語り芸の体現者ではなかったのか?」
「強欲って、どういう文脈から出てきた言葉なわけ?」

 などと、各方面から批判の声が集まった。
 私は何も言わなかった。
 無力感に襲われたからだ。

 今回のこれに近い問題に関連して、私は、昨年の9月に

《その昔「不謹慎だけど笑える」ネタは、「反権威・反秩序」の話で、それをとがめるのは「保守・封建・伝統」主義のおっさんだった。それが、ある時期から、笑えるネタが「反人権・反ポリコレ・反フェミニズム」方向にシフトして、眉をひそめるのは「良識・リベラル」派の亜インテリてなことになった。》(こちら

《何が言いたいのかというと、お笑いが反体制だというのは、20世紀の話(それも多分に幻想)で、21世紀のお笑いは大衆を慰安することで権力の統治を補完しているのではないかということです。まあ、お笑いに限らずロックをはじめとするサブカル全般に言えることなのでしょうが》(こちら

 というツイートを発信している。
 いまも、この立場に変化はない。

 現代にあって、お笑いは、新自由主義的な、市場原理主義的な、勝ち組が負け組を嘲笑して悦に入る的な、功成り名遂げた先輩芸人が下っ端の芸人やアガリ症の素人を小突き回してその挙動不審のリアクションを冷笑するみたいな娯楽になっているということだ。

 意気阻喪しつつ思うのは、結局のところお笑いが反権力的な技芸だった時代は、歴史上一回も存在していなかったのかもしれない、ということだ。