「だってさ、日本の企業の国際競争力を高めるためには、労賃を節約する施策が必要なわけだろ?」
 「そりゃ、企業の収益力の向上には人件費を抑えることが一番の近道なわけだし」
 「だとすれば、安価で優秀な労働力の確保を最優先にした施策を打ち出すのは当然だよな」

 てな調子でこの法案を受けとめている人たちが日本人の多数派を占めている(ように見える)ということだ。

 なぜ、労働者である自分たちの権益が削がれるかもしれない法案に平気な顔で賛成できるのか、そこのところの理屈は実は、いまのところはまだ、うまく解明できていない。

 ただ、一介の労働者に過ぎない多くの日本人が、なぜなのか、国策や日本経済を語る段になると「経営者目線」で自分たちの暮らしている社会を上から分析しにかかっていることは、明らかな事実だったりもする。

 とすれば、お国の打ち出す施策が経営者にとって望ましい方向に近似して行くことは、これはもう自明の理だ。

 昔からそうだが、男の子が戦争の話をする時には、司令官の目線で語ることになっている。

 どこどこの戦線を打開するためには、これこれの戦力をこんな手順で投入してとかなんとか、夢想の中の戦争は、常にマクロの視点からの戦略として発想され立案される。そして、ゲーム盤の上のストラテジックでスリリングで、血湧き肉躍るヒロイックなストーリーは、あるタイプの人々に常に変わらぬ陶酔をもたらすのである。

 もちろん、現実に戦争が起こってみれば、ほとんどすべての兵士は盤上の一個のコマになりはてる。

 が、具体的な肉体としてミクロの戦線に放り込まれ、物理的な泥沼の中で火薬と鉄と血と涙にまみれたまま転がされる一個の肉体たる兵士の気持ちなど、知ったことではない。戦争を夢見る人間は、兵隊の夢なんか見ない。国家の戦争を夢見る人間は、ほかの誰かが死ぬ夢と、凱旋パレードの夢だけを選択的に反芻することになっている。

 おそらく、国策や企業戦略についても事情はそんなに変わらない。

 夢見がちな人々が娯楽として思い浮かべるのは、ミクロな労働者の個人的な懊悩や、貧困にあえぐ失業者の陰にこもった失意や、日々の暮らしに疲弊した非正規労働者を襲う無力感ではない。彼らが繰り返し思い浮かべては頬を緩めるのは、国際社会を舞台にイノベーションを追求する若きアントレプレナーの野望と成功であり、画期的な改革案を胸に会議に臨む架空のビジネスエリートのスチャラカ出世物語だったりするのである。

 ……何を言いたいのか説明する。

 21世紀にはいってからぐらいだと思うのだが、私の目には、この世界のなかで起こるさまざまな出来事を「経営者目線」でとらえることが優秀な人間の基本的マナーですぜ的な、一種不可思議なばかりに高飛車な確信が広がっているように見えるのだ。

 その「経営者目線」は、別の言葉で言えば、「勝ち組の思想」でもあるのだが、経営でも政策でも戦略でも受験でも、自分が労働者であるよりは経営者であり、負け組であるよりは勝ち組であり、とにかく勝っている側に立って考えるべきだとする前提が、あまたの自己啓発書籍の教える勝利の鉄則だったりするということだ。

 で、そういう、決して負けを想定しない勝ち組理論の中では、弱い者や貧しい者や運の悪い人間や恵まれない育ちの仲間は、「自己責任」というよく切れる刀で切って捨ててかえりみないのが、クールな人間の振る舞い方だってなことになっている。

 一番短い言葉で言えば、「ネオリベラリズム」ないしは「市場原理主義」ぐらいの言葉に集約できる思想なのかもしれない。ともあれ、こういう、本来なら本当の勝ち組の人間を想定したバカなラノベの主人公が本文中で生存者バイアス丸出しでしゃべり倒すにふさわしい軽薄極まりない思想が、どうしてなのか若い世代やイケてるつもりの連中の合言葉になってしまっているようにみえる。

 この事態に、私はいまだにうまく適応できずにいる。
 「勝ち残ったオレは優秀だ」
 「優秀なオレが勝ち残ったんだから、この競争は公正だ」
 「優秀なオレが勝ち残る市場をビルトインしているわけなのだからこの世界はフェアで正しくて美しい」
 「負けた人間は自分の能力不足で負けただけなのだからして、同情には値しない」
 「負けた人間に温情をかけるのは、その人間の弱さを助長する意味でかえって残酷な仕打ちだ」

 と、乱暴に要約すれば、こんな感じの、中二病どころか小学校5年生の実写ジャイアンみたいな思想が蔓延しているのだとすれば、裁量労働制が支持されるのは当然の流れというのか、時代の必然と申し上げねばならない。