これに対して私は、

《《「政権批判の自粛が広がっている」という記事が載ること自体が言論封殺の成立を否定している》みたいな言い方って、一見もっともらしいけど、「程度」の問題を無視していると思うよ。政権批判の「自粛」が広がることは、政権批判記事が「根絶」されることとは別なわけだし。》(こちら

《程度の問題を無視して極論を言うなら、「こういう提灯持ちが現れること自体、政権のプロパガンダが確実に浸透していることを物語っている……」みたいな言い方だってできるわけでね。》(こちら

 という二つのツイートで応じたわけなのだが、状況は当時より深刻化している。
 というのも、「政権批判の自粛が広がっているという記事が載ること自体が、言論封殺の成立を否定している」という主旨の発言をする人間が、素人のツイッタラーではなくて、政権の中枢のメンバーになっているからだ。

 「言論の弾圧」は、必ずしも憲兵がやってきて記者を逮捕していったり、新聞記事の文面が伏せ字だらけになることだけを意味しているのではない。

 一般的な言論への圧力は、もっと微妙な形で、たとえば、政権に対して苦言を呈することの多いニュースキャスターが更迭されて代わりに局アナが起用されるとか、GDPが二期連続でマイナスである旨を伝えるニュースに「実体経済は変わらず良好」というテロップが添えられるみたいな現象として、メディアの上に顕現することになっている。

 というよりも、言論への圧力は、そもそも、受け手には気づかない場所で進行するはずなのだ。

 私は、丸川環境相や高市総務相のニュースより、丸山議員の失言のニュースの方がずっと大きく扱われていること自体が、実のところ、大きな枠組みから言えば、「メディアの萎縮」の現れであるというふうに受け止めている。

 なんとなくやりにくいニュースをスルーしているだけで、「萎縮」はものの見事に達成される。

 少々古い話になるが、1月29日の朝日新聞に載った、池上彰さんの「新聞ななめ読み」というコラムが、メディアの萎縮の背景にある微妙な空気をこれまた微妙な書き方で活写していて秀逸だった。(こちら

 安倍首相の動静記事を大手紙がどのように書いているかを読み比べたものだ。リンクを辿れる方は、ぜひ参照していただきたい。

 2年もしたら、私たちは、首相がいつ、誰と食事をしたのかについて、知ることができなくなるかもしれない。

 私たちが首相の会食の相手の名前にアクセスできなくなる理由は、メディアの人間が会食の席から締め出されるからではないかもしれない。
 その逆で、彼らが首相と肝胆相照らす仲になっているから、かもしれない。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

「言論弾圧は世論の後押し無しでは貫徹できない」byオダジマ。
提灯持ちになるより、提灯貼りで糊口をしのぎたい。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。