この後、安倍晋三首相が、「番組全体は一つ一つの番組の集合体で、番組全体を見て判断する際、一つ一つの番組を見て判断するのは当然」と、高市大臣の停波発言を追認し、(こちら

 さらに、16日午前の衆院予算委員会では、《放送局の電波停止に触れた自らの一連の発言をめぐる最近の報道について、「私自身に対するここ1週間くらいの報道を見ても、決してメディアは萎縮していない。報道に携わる方が矜持(きょうじ)をもって伝えるべきことを伝えている」と述べ》ている。(こちら

 これは、以前、国会答弁の中で、安倍首相が、《「今日、帰りにでも日刊ゲンダイを読んでみてくださいよ。これが萎縮している姿ですか」》と言って野党の質問を笑い飛ばしたのと同じ論法だ。

 わかりきった話ではあるのだが、一応反論しておく。
 メディアの萎縮というのは、0か1かを問うオール・オア・ナッシングの問題ではない。

 萎縮には程度があり、段階があり、また分野があり強度がある。どの分野のどの報道が、どんなふうに萎縮しているのかについては、数多くあるメディアの現在と過去を仔細に比較検討した上でないと、簡単には答えられない。

 「日刊ゲンダイ」が連日安倍首相を非難する記事を掲載しているからといって、そのことをもって、日本のメディアがまったく萎縮していないことを立証することはできないし、高市総務大臣の一連の発言への批判記事が複数のメディアに掲載されているからといって、すべてのメディアが圧力を受けていないと言い切れるものでもない。

 その種の極論が許されるのであれば、戦前の日本にも最後まで政府批判を貫いていた人々はいたし、ナチスドイツ治世下のドイツであっても、一部の宗教者やレジスタンスはヒットラーへの抵抗をやめていなかったわけで、とすれば、大本営の大日本帝国でも、ナチスドイツでも言論の自由は保障されていたということになってしまう。

 昨年の2月、当時世間を騒がせていた「イスラム国」人質事件に関連して、政権批判の自粛が広がっているとして、そのことを憂えるジャーナリストや学者1200人が、「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道陣、表現者の声明」を発表するということがあって、朝日新聞がその記事を掲載したことがあった。

 と、早速

《そもそも、この記事が載ること自体が、言論封殺の翼賛体制なんてないということを証明してるじゃねえか>「政権批判の自粛、社会に広がっている」1200人声明 - 朝日新聞デジタル》

 と、記事を揶揄するツイートが私のタイムラインに流れて来た。