だが、収録番組における不適切発言は、「言葉の勢い」や「行きがかり」といった生放送の時に使われる弁解で免罪できるものではない。
不適切ならカットすれば良いし、ミスがあったのなら撮りなおせば良い。編集ができるというのはそういうことだ。
収録番組は、スタッフなりプロデューサーなりが、責任を持って大丈夫であることを確認した上で放送される編集済みのコンテンツとして送出されている。とすれば、最終的な責任は出演者でなくて、番組制作者の側にあると考えなければならない。
というよりも、スタジオ収録の情報番組をナマでなく、収録済みコンテンツとして編成することの意味は、ライブ配信に伴うリスクを回避するところにあるはずなのであって、ということはつまり、収録番組の中で出演者が漏らす言葉についての責任の半ば以上は、放送局の人間が負うべきものなのだ。
三浦瑠麗さんが、収録中にああいう言葉で危機を煽ったことそのものは、スタジオのやりとりの中ではあり得る話だったのだろうと思っている。
それどころか、しゃべりの達者な芸人に囲まれて言葉のやりとりをしている素人が、過剰な言い方で自説を強調してしまいがちなのは、むしろ当然のなりゆきと言って良い。というのも芸人にしてみれば、緊張した素人から何らかの過剰さを引き出すことで笑いを拾うこともまた芸のうちなわけで、いずれにせよスベらないためにはジャンプしてみせないとおさまらないのがサーカスの実相だからだ。
そういう意味で、この問題は、ご本人が「言い過ぎました。すみません」と言えばそれで済んだ話でもある。
それ以前に、番組のスタッフが、当該部分の表現をあらためるべくお願いして撮り直すか、でなければ、まるごとカットしてしまえばそもそも問題にすらならなかったはずだ。
にもかかわらず、現時点で、番組スタッフから釈明らしい釈明が聞こえてこない。
以前「ワイドナショー」について「ワイ、どないしよ」の含意があるのではないかという仮説を提示したことがあるのだが、本当に”What shall I do?”(われ如何に生くべきや)を標榜する番組であるのなら、現在求められているのは、現今の状況についての責任ある説明だと思う。
まあ、名ばかりのワイドショーだというのならそれでもかまわない。
どっちにしても私は見ない。
上にリンクを張ったハフポストの記事によれば、三浦瑠麗さんは、twitterなどを通じて、氏の発言が在日コリアンへの差別や偏見を助長するという意見が多数寄せられたことに対して
「私は番組中、在日コリアンがテロリストだなんて言っていません。逆にそういう見方を思いついてしまう人こそ差別主義者だと思います。」
と反論している。
「曲解だ」
「こじつけだ」
「誤読だ」
「歪曲だ」
と、三浦氏の側に差別を助長する「意図」がなかったことを強調する人たちも、それはそれでたくさんいるはずだ。
が、実際に、あの放送を見た多くの人間が、在日コリアンとテロリストを結びつけた見方に立った情報発信をしている事実は動かしようがない。
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