その枠組みを考えるのが、役人であるべきなのか大学人であるべきなのかも、私には判断がつかない。

 ただ、財務省みたいな別のお役所が、今回の文科省の不祥事をとらえて、それを教育関連予算の削減のための口実にするみたいな近未来には、反対しておきたい。

 私のツイッターのタイムラインに時々顔をだす大学の先生方に言わせると、文科省のやることなすことは、なにかにつけて評判が良くないことになっている。

 とはいえ、文科省は、学問研究と教育の味方ではある。
 頼りない味方だったり、いけ好かないボスだったり、役立たずの仲間だったりするのかもしれないが、それでも最低限、まあ敵ではない。

 敵は、ほかの場所にいる。
 しかも、どうやらたくさんいる。

 たとえば、財務省はあらゆる機会をとらえて、教員の数を減らそうと画策している。
 政治家も、官僚や大学エリートへの闇雲な攻撃を浮動票の獲得に結びつけようとしている。

 その種の、「○○を殺せ」「××を火あぶりにしろ」みたいな声が力を持つと、うちの国の世論は、時にとんでもない暴走をはじめる。

 天下り役人といういかにも小面憎い顔貌を備えたあの人たちが、デフレ下の庶民の魔女狩り衝動に無駄な火をつけることがないことを祈っている。

 最後にひとつ付け加えておく。

 私は、ボトムから積み上げていく通常のキャリア形成と相反する形で、文字通りに天上の存在たる神々が人間界に舞い降りるようにして着任する倒錯した再就職ルートが設定されていること自体、わが国の労働市場の異様さを物語るものだと思っているわけだが、それ以前に、そもそもこんな奇天烈な制度が何十年も不動の前提としてまかり通っている背景には、キャリア官僚の内部に根を張っている序列意識が、いまなお武家社会由来のサル山構造から一歩も外に出ていないからだと考えている。

 国家公務員一種試験に合格した公務員は、同期の中で事務次官が出ると、基本的には退官することになっている。理由は、次官よりも年上の部下がいると、仕事がやりにくいからなのだそうだ。なんでも、プライドの高いキャリア官僚にとって、年下の部下に仕えることは耐え難い屈辱であり、一方部下を使役する側の次官にとっても、年上の部下に指示を出すことの精神的負担は御免被りたいものであるらしい。

 なるほど。

 この間の事情が物語っているのは、官僚という人々が、どうやら職業人としての死を迎えるその瞬間まで、肩書と上下関係でしかものを考えられない人間たちであるらしいということだ。